第1話
月曜の朝、
湊はノートを鞄のいちばん内側に入れて家を出た。
薄い冊子なのに、重さだけが増えた気がする。
駅前の信号で止まる。
赤。
歩行者の列。
スーツの袖。学生のリュック。自転車のベル。
目に入る順番を、頭の中で短く並べる。
並べると、呼吸が少しだけ整う。
青に変わる直前、
背中側で小さく咳がした。
振り向く。
知らない中年男性がマスクを直しているだけだった。
分かっていても、
肩の力はすぐには抜けない。
校門の手前で春名が立っていた。
腕を組まず、両手をコートのポケットに入れている。
湊を見ると、近づいて低く言った。
「昨日、眠れた?」
湊は一拍遅れてうなずく。
嘘ではない。
眠った時間が短いだけだ。
「ノート、続けてる?」
「……うん」
春名はそれ以上聞かず、
「今日は昼、図書室」とだけ言って先に歩いた。
確認事項みたいな口調だった。
午前中の授業は、
黒板の文字とノートの罫線が時々重なる。
チョークの粉が舞うたび、喉の奥が乾く。
湊は水筒に手を伸ばして、キャップを開ける前に止める。
また閉める。
開ける。
やっとひと口飲む。
昼休み。
図書室の隅の席で、春名は先に座っていた。
机の上には開いていない文庫本。
読むためではなく、座る理由のために置いたように見える。
「高城さんから連絡きた」
春名は声を落としたまま、視線を本の表紙に置く。
「川沿いの防犯カメラ、
それっぽい帽子の男は映ってる。
でも顔は潰れてて、特定まではいってない」
湊は指先でノートの角を押さえる。
紙の感触が、昨日より乾いて感じた。
「学校の近くも、しばらく見回り増やすって」
春名はそこで言葉を切る。
短い沈黙のあと、続けた。
「それで安全になるとは思ってないけど」
湊は返せない。
安全という言葉が、
今は具体的な形を持っていない。
図書室の入口で、
司書が返却本のバーコードを読む音が続く。
一定のリズム。
その音に合わせて、湊は呼吸を数えた。
四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。
二回目で崩れる。
「ねえ」
春名が本を閉じる。
閉じる音は小さいのに、やけに近い。
「次に見えたら、
その場で私に送って。
文章じゃなくていい。
場所だけでいい」
湊はうなずく。
約束としては弱い。
それでも、何も決めないよりましだと思う。
放課後、教室を出る直前。
窓の外で体育館の照明が点いた。
白い光が廊下の床へ伸びる。
その反射で、湊は足を止めた。
低い天井。
蛍光灯の明滅。
濡れた床。
誰かの荒い呼吸。
視界が揺れて、
すぐ戻る。
一秒もない。
それでも、胸の奥の締めつけは残る。
湊はスマホを取り出し、
春名のトーク画面を開く。
文字を打つ前に、指が止まる。
場所。
まだ確定していない。
確定していないのに、体は先に反応している。
「今、少し来た」
それだけ送る。
既読はすぐについた。
返信は短い。
「どこ」
湊は「教室」と打って送る。
数秒後、廊下の向こうに春名が見えた。
走らない。
早歩き。
顔は硬い。
「今は?」
「……戻った」
春名は息を整えながら、
教室の中を一度見回す。
誰もいない。
「戻っても、残るんだよね」
湊は答えず、
机の端に手を置いた。
木の冷たさで、少しだけ現実の輪郭が戻る。
そのまま二人で校門へ向かう。
会話はない。
外灯が点く時間で、
足元の影だけが長くなる。
昇降口を出たところで、
部活帰りの生徒の列が前を横切った。
笑い声が近い。
ラケットのフレームがぶつかる乾いた音もする。
その中を通り抜けるだけのことなのに、
湊は自分の歩幅だけが少し遅れているのに気づく。
春名は何も言わず、
半歩だけ速度を落とした。
合わせているのが分かる。
分かるのに、
礼を言う言葉は出てこない。
門を出る直前、
湊は無意識に後ろを見た。
誰もいない。
それでも、
見られている感覚だけが残る。
首筋の皮膚が、薄く張ったまま戻らない。
春名は気づいたように足を緩め、
湊の半歩後ろへ回った。
守るでも、追うでもない距離。
その位置のまま、
二人は黙って駅とは反対の道を歩いた。
住宅街へ入ると、
夕飯の匂いが塀の向こうから流れてくる。
換気扇の音、
自転車のブレーキ、
犬を呼ぶ声。
どれも普通の生活の音で、
その普通さだけが今は少し遠い。
角を一つ曲がったところで、
春名が前を向いたまま聞いた。
「教室って、前にもあった?」
湊はすぐに答えられない。
見えたものの輪郭より、
戻ったあとの息苦しさのほうが先に残っている。
「……ここまで近いのは、ない」
春名は短くうなずいた。
それ以上は掘り下げない。
でも、聞いたことで
今の断片が次の判断材料として置かれたのは分かった。
駅と反対へしばらく歩いてから、
二人は人通りの多い通りで別れた。
湊は一人になる直前に、
もう一度だけスマホの画面を確かめる。
春名とのトーク欄は開いたまま、
「今、少し来た」の一文だけが上に残っていた。
短い。
短すぎる。
それでも、
あの瞬間に送れたのはそこまでだった。
湊は画面を閉じて、
息を浅く吸ってから家へ向かった。




