第10話
夜の二時過ぎ、湊は目を閉じても眠りに落ちきれなかった。
布団の中で呼吸の回数を数える。
八で乱れて、また一からやり直す。
窓の外で、
遠くのトラックが橋を渡る低い音が続いていた。
その音が止むと、部屋の静けさだけが急に広がる。
スマホの画面を点ける。
通知はない。消す。
二分後、また点ける。
同じ動きが続く。
自分で止めたいのに、止める前に手が動く。
朝になるころには、
喉の奥が乾いて痛かった。
鏡の中の自分は、まぶたの縁だけ赤い。
学校を休む理由を考えた。
発熱。腹痛。
どれも使える。
どれも、使ったあとが残る。
結局、湊は制服を着た。
ボタンを留める指が、途中で二度滑る。
登校途中、
春名から短いメッセージが来た。
「着いたら連絡」
それだけ。
句点も絵文字もない。
湊は「うん」と打って、送信前に五秒止まり、
結局そのまま送った。
教室の空気はいつも通りで、
いつも通りの顔ぶれが座っている。
その普通さに、湊は逆に息苦しさを覚えた。
机に鞄を置いたとき、
後ろの席の生徒が何気なく言う。
「なあ、神代。
昨日、病院いた?」
湊の動きが止まる。
振り返る前に、首筋に冷たい汗が出る。
「……なんでそれを」
「いや、誰かが見たって」
誰か。
その輪郭の曖昧さが、いちばん怖い。
湊は曖昧に笑って首を振り、
それ以上の会話を切った。
昼休み、春名は自販機前にいた。
湊が近づくと、缶のプルタブを押したまま言う。
「今日、刑事来てる」
湊の喉が鳴る。
春名は目を合わせないまま続けた。
「職員室で見た。
昨日の件、たぶん学校にも来る」
湊は缶コーヒーのボタンを押し、
落ちる音に肩を震わせる。
熱い缶を握っても、指先は冷えたままだった。
「逃げる?」
春名の問いは冗談じゃない。
湊は小さく首を振る。
「逃げても、変わらない」
「だよね」
春名は一口飲んで、缶を両手で持ち直した。
「じゃあ、せめて一人で受けないで。
私、近くにいる」
その言葉は救いというより、現実的なロープみたいだった。
細い。
でも掴める。
放課後、湊はまた高城と向き合った。
場所は前と同じ職員室の隅。
ペットボトルのキャップは、今回も閉まっている。
「昨日、病院にいたね」
高城は断定で入った。
湊は否定しない。
「どうして、あそこへ行った?」
湊は答えを探す。
真実は言えない。
嘘だけで組み立てるには、呼吸が追いつかない。
「……知り合いが、いるって聞いて」
高城はしばらく湊を見た。
責める顔ではない。
どこまで崩れるかを見る顔だった。
「神代くん」
丁寧な呼び方で、
高城は声を少し落とす。
「君の周りで人が死ぬ、と言ってるわけじゃない。
でも君は、死の現場に近すぎる」
湊は息を吸う。
言葉より先に、胸が強く詰まる。
「偶然で済むなら、それでいい。
済まないなら、君は早めに誰かに話したほうがいい」
誰か。
その候補の中に、春名の顔が浮かんで消える。
浮かんだことを隠すみたいに、湊は視線を下げた。
「……無理です」
高城は否定しない。
名刺をもう一枚差し出す。
「無理でも、持ってて」
湊は受け取り、
財布ではなく胸ポケットに入れた。
紙の角が、心臓の近くに当たる。
面談が終わり、校門を出るときにはもう暗かった。
外灯が点いて、地面に細い影を作る。
春名は門の横で待っていた。
腕を組んだまま、湊を見る。
「終わった?」
「たぶん」
短いやり取り。
それで十分だった。
二人で歩き出す。
会話はない。
ただ、歩幅だけが少しずつ揃う。
交差点で赤信号に止まり、
湊はガラスに映る自分たちの影を見た。
自分。
春名。
その少し後ろ、街灯の陰に、もう一つ縦の影が見える。
振り向く。
誰もいない。
もう一度ガラスを見る。
影は消えている。
青に変わっても、
湊は一歩目を出すまでに時間がかかった。
春名は何も言わず、
半歩だけ近い位置で並んだ。
胸ポケットの名刺の角が、歩くたびに皮膚へ触れる。
痛いほどではない。
でも、ずっとある。
湊はその感触を確かめながら、
息の浅さを隠すように、前だけを見て歩いた。
逃げても変わらないなら、何を先に見るべきかだけが残った。




