その三
よし。大きな怪我はない。まだ、まだ行ける。
私はよく耕された軟らかいふかふかの土から大きく激しく立ち上がる。
服や体に付いた土を軽く払い、結構な畑の斜面を四つん這いになって獣のように這い上がり、深い側溝にはまりぐったりしている自転車をうむと引き上げるなり素早く跨がり、一応畑の主に心ですまぬと手を合わせてから、よしと一呼吸入れて再び走り出す。
ぐっとペダルを漕ぎ、走り出した。
走り出したは良かったが、世の中本当に悪い時には悪い事が続くものである。
スムーズに走れたのは最初の数メートルに過ぎなかった。すぐに車体からギコギコとあやしい音がして真っ直ぐ走れなくなった。
どうやらさっきの転落でフレームが歪んでしまったらしい。
そのうちにタイヤが異常に重たくなってしまった。
やはりさっきの転落でパンクしてしまったらしい。
小さく舌打ちして、尚もペダルを漕いでみる。ダメだ。どんどん加速的に重たくなって動かない。完全にアウトである。
マジか。
再びがっくり失意である。
ああ、もはやこれまでか。
冷えてきた体に首や肘の鈍い痛みがにわかに感ぜられてきて、ため息が止まらない。
颯爽と走り続けていた自転車のフレームも、今はまるでポンコツになった私自身のように歪んでギイコギイコと鈍い唸り声をあげている。穴の空いてしまったタイヤも今はゴボゴボとだらしない力ない音を立ててぐったり萎びてしまっている。
自転車がごめんねと言っている。
ごめんね。もう疲れちゃった…もう動けないよ…。もう無理みたいです…。
愛車ががくがく揺れて泣いている。
こっちこそ、ごめんね。もっと優しく、丁寧に乗ってあげればよかったのにね。
あたふたと狼狽えながらそっと自転車を降りて、傷だらけになってしまった車体についた土や泥を手で払い落とした。そうしながら、訳もなく寂しく心細くなってきて涙が零れてきた。零れた涙がとめどもなく頬を濡らすので、思わず腕で拭うたび、顔が土でジャリジャリして仕方がなかった。
やがて中腰の姿勢に疲れた。腰の痛さにしばし地面に座り込み、撫でるようにペダルを回しながら失意のため息も今日は何度目だろうか。タバコを一服しながら呆然としていた。これからどうしたものかとぐったり俯くしかなかった。
こんな静かな夜、逃げるようにここまで自転車を漕いできたのだ。そして虚ろな心の軋む音は尚も胸を締め付け続けているのだ。
いつまでもここに座り込んでいる訳にもいかないのだ。
心の中で己れを鼓舞してみる。
今までの人生、拙いながらもそれで乗り切ってきたのだ。
月明かりが辛うじて細い道を照らし出している。よし、行こう。
行けるだけ、歩こう。
歩けなくなったら、またその時だ。
今は虚しい心から少しでも逃れたい。
よろよろ立ち上がり、傍らの故障した自転車を眺める。心なしか一回り小さくしょんぼりとうつむいているように見える。
私は愛車をここに置き捨てる気持ちになれなかった。ずっと一緒に過ごしてきたんだ。こんな時こそ一緒に行こう。
傷付いた戦友の肩を抱くようにゆっくり押しながら何もない暗い一本道をどこまでも歩き続けた。
今は身も心も全てに疲れてしまった。
まるでパンクしてしまった相棒の自転車のように。
しかし、まだ湧いてくる。奥の奥から、深い底から。緩やかに密やかに湧いてくる。疲れはてた体の奥底から鼓動に伴って微かな生命のエネルギーが湧いてくる。
まだ途中だ。
まだまだ、続く。
終わりまで進むぞ。
深いため息と共に何故だか、強くそう思った。そう信じて進むよりなかった。




