その四(完)
何時になっただろう。
ここはどこだろう。どこへ行こうとしているのだろう。私には何もわからなかった。
随分と夜も更けて、唐突に小さな小屋が二つと駐車場だけの道の駅が現れた。
山間の民家も見当たらぬ路傍にそこだけ取り残されたようにポツリと建っている。
立ち止まり、少し思案する。
このまま歩き続けるか、一休みしていくか。
冷えてきた事もあり、もとより運動不足の私は流石にごまかしの効かぬ程に疲れていた。
一寸でいい、体を休めたいなというのが偽らざる所の本音であった。
がらんとしたその道の駅とやらは、疲れた今の私には砂漠のオアシスみたいにさえ思われて、結局ふらふらと吸い込まれるようにその敷地へと入っていった。
販売所と書かれた看板の小屋はシャッターが降りていた。もう一つ、休憩所と書かれた看板の小屋は薄暗くも開いているようだ。そっと中を覗いてみる。自販機の光が、簡易なテーブルと椅子とをか細く照らしている。天井の蛍光灯は全て消されて中はしんと静まり返り、誰もいない。
お邪魔します。
そっとドアを開けて中に入る。ブゥンと低く唸る自販機の音と共に、いささか空調が効いていてほのかに暖かく、思わずほっと安堵のため息が出た。
どうしたものか。ここで野宿でもするかな。
取り合えず、自販機の前に立ってみる。
まことに有り難いことに、無料のお茶があった。
素早くボタンを押すと、紙コップがどこからかポコンと落ちてきて、温かい湯気と共にお茶が注がれる。
注ぎ終わると賢いもので自販機のふたが開き、さぁどうぞとなる。
そっと握った紙コップの温もりが訳もなくしみじみと嬉しかった。
疲れた体でどっこいしょと丸い椅子に座り込んで、無料のお茶を注いだ紙コップ片手にやれやれと、しばしぐったりとしていた。
しばらくした頃、外の駐車場に弱々しくくたびれたエンジン音と共に二つライトがぐるりと見えた。車が止まり、ドアから降りた小柄な人影がゆっくりとこの休憩所に向かってくる。
こんな時間に誰だろう。一寸怪しいなと思った。
人の懸念をしている場合ではなかろう。自分だって同じ不審者だろうが。
その時の私は自身の現状をすっかり忘れたまま新たな訪問者の到来に焦燥しまた狼狽えてしまった。
若い女だったらいいのにな。でも、こんな薄暗い休憩所で見知らぬ女と二人きりになっても却って気詰まりだな、等と若干浮き立った心もどこかに抱きつつ近付いてくる小柄な影を横目に見ていた。
おじゃまします。
静かな声の主は小柄なお爺さんであった。
私を見て、ぺこりと小さく会釈してから入ってきて、やはり無料のお茶を注いだ紙コップ片手に同じテーブルの一寸離れたパイプ椅子に腰掛けて、ふぅと小さなため息と共にお茶をすする。
老人とてこんな夜中にこんな寂しいところに来るとは怪しい。安心は出来ぬ。
私は老人を横目に見ながら独占していた静かな落ち着いた空間に入ってきたよそ者に対してまだ微かな猜疑の念もあり、またなんだろうか微かな失意もあり、あくまでぐったりうつむいていた。
しばし互いに警戒するような咳払いをしたりお茶をすすったりする音だけが続いた。
その内老人が独り言を呟くようにポツリポツリと語りだしたのだ。
静かな休憩所に、幾つか並ぶ自販機の唸る音と、老人の低いしわがれた声とだけがあった。
なかなか眠れなくてね。
僕にはね、娘が居たんですけれどね、去年の暮れに死んじゃってね。
一人娘だったからね。もうどうしようもなく寂しくて虚しくてね。
大分前に妻にも先立たれちゃってね。
もう、独りぼっちなんですよ。
時々ね、こういう眠れない夜には車で一寸遠くまで走るんです。娘も小さな旅が好きでね。よく日帰りであっちこっち出掛けていたものでした。もう旅行にも行けない娘の代わりって言ってはなんですがね、時々娘の写真を持って方々出掛けるのです。明日もアルバイトがあるからそんな遠出はできないんですけどね。
小柄な老人は口許にうっすらと寂しげな笑みを浮かべながら穏やかな口調で話すと、自嘲気味に首を小さく傾げて白髪頭をぽりぽりと掻いたりした。
あの、あなたは、と言って一寸私の汚れた顔とスーツ姿を見て、お仕事、ですか?
と少し不思議そうに尋ねてきた。
いや、そんなんじゃないんですけどね。
手を振り慌てて答えてから、老人を前にしばし沈黙してしまった。
老人は私の言葉を待つようにじっと佇んでいる。
なんて言ったらいいのか、上手く言えないのですが、なんとなく自分が嫌になってしまいました。
逃げて、ここまで来て、何も考えられなくて、疲れてしまって取り合えず休んでいました。
老人も私も、うつむいたまましばし無言の時が流れた。
やがて老人は重たい口を開いた。
僕も上手く言えないのですがね、娘の代わりにとか言って車を走らせてここまで来ましたけどね。本当は一寸違うかも知れません。どうしようもなく寂しくて、そんな自分を助ける為に救うために小さな旅を繰り返しているのだと思います。
心の中にある、ここを割ったらおしまいだっていうギリギリで瀬戸際で切羽詰まった苦しい時には誰も助けてくれない、いやどうにもこうにも助けようがない。
結局自分を助けるのは自分しか無いんじゃないかと思うんですよね。最後には自分が自分を大切にしなくては。その意識がギリギリで大事なんじゃないかなと思うんですよね。偉そうな事を言ってすみません。情けないけれど、こんな歳になっても僕にもよくわからないんですよ。
ただ僕はそうやってどうしようもない戻りようのない気持ち、喪失感、どこにもやり場のない失意。そんなものをどうにかこうにかかわしてきた気がするんです…。
あなたの切なさや落ち込みはその顔を見ればなんとなくわかる気がします。
大変でしたね。
そう言って、老人は私の顔に手を伸ばし、撫でるように頭と顔の土をそっと優しく払ってくれた。
私は訳もなく恥ずかしく、また老人の言葉の一つ一つに込められた実感と切実さとに思わずとりすがり子供のように泣きたくなった。
誰もが前向きに生きられる訳じゃない。誰もが未来を夢見て生きてる訳じゃない。それでも明日は来る。嫌でも明日は来る。時間は砂時計みたいに止まることなく流れ続けています。亡くなった人の魂はいまどこにいるんだろう。ずっと側にいるような気もします。でもそれは過去なんです。過去の記憶、思い出です。なにもわかりません。でも、生ある限り生きていくしかない。明日が来る限り明日を生きなければいけない。こんな夜には、自分にそう言い聞かせています。
呟くように語り、老人はうつむいて沈黙した。
やがて老人は休憩を終えて家路についた。
自動ドアの前でこちらを振り返り、微笑して私に小さく手を振ってくれた。
私も軽く頭を下げ手を振り返した。
やがて疲労の回復に伴い気力も湧いてきた。私もこうしてはいられない。鋭く立ち上がり、ズボンに付着したままの土をパッと払い、家に帰ることに決めた。
ギシギシと苦しげに呻く自転車をよしよしと撫でながら、また一本道を一寸歩くと、やがて小さな踏み切りに当たった。この辺に走る電車は一本である。すなわち朝晩と私の乗っている電車の線路である。
暗い夜道に一筋の光芒が見えた。間違いない。ここを辿ればいつもの最寄り駅に着く筈だ。
線路沿いの雑草だらけの小さな道をどこまでも歩き続ける。果たして家まで後どれ程だろう。朝までにはたどり着けるだろうか。
虚ろな心はまるで今の私の歩く横に街灯に照らされ長く伸びる影のようにゆらゆら揺れながらどこまでも付いてくる。
ぐったりと俯き背中を丸めて、それでも一歩一歩踏み締めるように歩き続ける。耳を澄まし、一寸先の闇に目を凝らし、日常へ帰る為に、虚しい日々の暮らしの為に、一歩一歩、粛々と踏み締めて歩き続ける。
路傍に鳴く虫の音が果てしなく、私の乾いた心の奥底に水のように一滴ずつ染み込んできて離れなかった。
夜明けまで後どの位だろう。そもそも本当にいつか夜は明けるのだろうか。いや、きっといつかは明けるはずだ。明けない夜はないはずだ。今は闇の深さにそれを信じられないだけなんだ。
か細い街灯の光が照らす深海の底のように果てなく深い闇の中で、そんな事をぼんやり考えていた。




