第三章 夜のプール、10年目の決着
月日は流れ、僕は大人になった。
毎日の業務に追われ、責任ある立場としてチームを率いる日々。プールからは、すっかり遠ざかっていた。
——42歳の春。
二日酔いの頭を抱えながら、僕は会社のトイレに駆け込んだ。個室に飛び込み、用を足す。ふう、と一息ついて、立ち上がる。
その瞬間、下着が冷たくなっていることに気づいた。
(……え?)
信じられなくて、もう一度確認する。間違いなかった。ほんの少しだけ、漏れていた。尿が。自分の意思とは関係なく。
頭が真っ白になった。骨盤底筋の緩み——聞いたことはあった。運動不足、加齢、体重増加。まさか、自分が。
手を洗い、鏡を見る。そこに映っていたのは、見覚えのあるようで見覚えのない男だった。顔は確かに自分だ。でも、腹が出ている。横を向いて、思わず息を呑んだ。
妊娠八ヶ月。
そんな言葉が浮かんだ。冗談じゃない。でも、そうとしか見えなかった。いつからだ。接待続きで、運動なんてしていなかった。休日出勤も増えていた。
個室に戻り、便座に座ったまま、しばらく動けなかった。
(このままじゃ、まずい。何か——何か、変えなきゃ)
その夜、僕は近所のスポーツクラブのサイトを開いた。プールがあった。水泳なら、腰にも優しい。骨盤底筋にも効くらしい。何より——
一人で、黙って、できる。
誰にも言わずに通える。恥をかかずに済む。そう思った。
——ジムに通い始めて、半年が経った。
最初はひどいものだった。25メートルで息が上がり、50メートルで立ち止まる。学生時代の感覚は、身体のどこにも残っていなかった。クロールは息が続かない。仕方なく平泳ぎで距離を稼ぐ。それでも、週に二回、三回と通ううちに、少しずつ距離が伸びていった。
100メートル。200メートル。300メートル。
500メートルの壁は、厚かった。何度も足をつき、何度も諦めかけた。でも、あの夏の記憶が、僕を止めなかった。550メートル。小学六年生のあの日、不格好な犬かきで泳ぎ切った、僕の人生最長記録。
その夜、500メートルを過ぎたあたりで、視界が途切れそうになった。チアノーゼ寸前。酸素飢餓で意識が遠のく。それでも、手を止めなかった。あの夏の自分を、超えなきゃ。
550メートル。達成した。でも、そこで止まらなかった。もう一ターン。腕が悲鳴を上げ、肺が焼けていた。それでも、壁を蹴った。
600メートル。プールサイドの縁を掴み、激しく肩で息をしながら、僕は静かに悟った。
(これで……ようやく、あの小学六年生の自分を超えられた)
——だが、その達成感は、長くは続かなかった。
ロッカーで着替えながら、僕はぼんやりと考えていた。次は、何を目指せばいい?
健康体を取り戻す。それが目的だ。でも、そのための具体的な目標が、もうなくなってしまった。550メートルを超える。それが僕の唯一の目標だった。超えてしまった今、僕はどこへ向かえばいい?
——いや、目的なら、まだある。
妻にも言えない、あの失禁を止めること。この、妊娠八ヶ月の腹をどうにかすること。ダサい。でも、それが現実だった。誰にも言えない、ちっぽけで、情けない目標。
着替え終わり、ロッカーからプールを見下ろせる通路に出た。
プールには、まだ何人か泳いでいた。バシャバシャ、バシャバシャ。水しぶきを上げ、腕を叩きつけ、力任せに進む泳ぎ。見慣れた光景だ。
僕も、相変わらず似たような泳ぎをしている。だから、あのバシャバシャがどれだけ苦しいか、よくわかる。水を叩けども叩けども、進んでいるのかどうかわからない。息は上がる。肩は痛い。それでも、前に進むしかない。
——その中で。
一人だけ、異彩を放つスイマーがいた。
二十歳くらいの、大学生だろうか。細身の身体だった。筋肉モリモリというわけではない。むしろ、無駄な肉はどこにもなく、しなやかで、軽やかで——水と一体になっているかのようだった。
水しぶきが、一切ない。バシャバシャと音を立てるでもなく、腕を叩きつけるでもなく。一泡も、水しぶきが上がらない。ただ、静かに、滑るように進んでいく。
なのに——
誰よりも速かった。
僕は通路の手すりに手を置いたまま、いつのまにか見とれていた。
(なんだ、あれ。バシャバシャ泳がないと、速くならないんじゃないのか?)
僕の中の常識が、音を立てて崩れる感覚。力を入れれば進む。水を叩けば進む。そう信じて、泥臭く泳いできた僕にとって、それはパラドックスだった。
力感がないのに、速い。
水しぶきがないのに、進む。
柔よく剛を制す——そんな言葉が、頭の片隅をよぎった。でも、その意味を、僕はまだ知らなかった。知ろうともしていなかった。ただ、あの静かな泳ぎが、脳の片隅にこびりついて離れなかった。
——あれから10年。僕はようやく、その意味を理解し始めている。




