第二章 脱げた水着と、やり切った顔
中学三年の夏。プールは再び、僕の前に試練として現れた。
クラス対抗男女混合リレー。くじ引きの悪戯で、僕はクラスのアンカーに選ばれていた。
「まあ、うちのクラスは4番目くらいだし、僕のところで最下位になっても誰も責めないだろう」
コースサイドで、僕は冷めた諦めを抱えながら順番を待っていた。あの小六の夏以来、僕にとってプールは「笑われる場所」だった。目立たないように。失敗しないように。それが、僕の泳ぎ方になっていた。
ところが、レースは予想外の展開を見せる。
僕の前を泳ぐ中村さんが、驚異的な追い上げを見せたのだ。
普段の教室では決して目立たない中村さん。大人しい子、というのがクラスでの彼女の評価だった。幼馴染の僕だけが知っていた。彼女は内に秘める熱いハートを持っていることを。
そんな中村さんが、水しぶきを上げながら、ぐんぐん前の泳者を抜き去っていく。
一人抜いた。また一人抜いた。そして——
首位に躍り出た。
コースサイドの壁に、バシッと手がタッチする。
——その瞬間、僕の身体はもう動いていた。
タッチの音が耳に届くより早く、脚がコースサイドを蹴っている。飛び込みの姿勢に入る。水面が近づく。すべてがスローモーションになったような、あの感覚。
空中で、僕は見てしまった。
タッチした中村さんが、水面から顔を上げる。その視線が、中村さんの上で飛び込む僕と交差した。その顔は僕をまっすぐ見ていた。息を呑むほど清々しい「やり切った顔」。教室では決して見せない、輝くような表情。
そして、その口元が、わずかに動いた。
「頑張って!」
水しぶきで、声はよく聞こえなかったかもしれない。でも僕には、そう聞こえた。そう見えた。あの一瞬の笑顔が、そう言っているように思えた。
水に触れる。冷たさが全身を包む。だが、僕の中で冷めていた何かは、その笑顔を見た瞬間に——爆ぜていた。
(このバトンを、無駄にできるわけがない。あの顔に、応えなきゃ)
頭の中にあるのは、中村さんのあの笑顔と、「1位で繋がれたバトン」だけ。なりふり構わず、全身の筋力を振り絞って水を掻く。視界が白く泡立ち、肺が焼けるように熱い。腕が、脚が、悲鳴を上げる。それでも止まらない。
ゴール板にタッチした瞬間、順位は3位だった。
首位を守り切ることはできなかった。でも、僕は持てる力をすべて出し切っていた。あの小六の夏とは違う。今回は、笑われるために泳いだんじゃない。誰かの想いを繋ぐために泳いだんだ。
——だが。
必死さの代償は、大きかった。
あまりの激しい動きに水着のロープが緩み、プールサイドへ上がったとき、僕の水着は半分脱げ落ち、お尻が半分剥き出しになっていた。
プールサイドに座っていた全校生徒287名から、雷鳴のような大爆笑が巻き起こった。
「見えてるぞー!」
「何やってんだよ!」
香園と鴛海の声が、一番大きかった。
またしても、笑われた。
でも、あの小六の夏とは違っていた。
お尻を見せて笑われる自分を気恥ずかしく思いながらも、胸の奥には中村さんの清々しい顔と、全力を出し切った確かな満足感が残っていた。
笑われてもいい。僕は、僕の泳ぎをした。
——その日の放課後。
教室に、中村さんが一人で残っていた。窓際の席で、ぼんやりと外を見ていた。僕は、声をかけた。
「今日は、ありがとうな」
中村さんは、振り向いた。一瞬、驚いた顔をして、それから、少しだけ笑った。
「……別に。私が、頑張っただけだよ」
「いや、あの『頑張って』。聞こえた」
「……聞こえてたんだ」
中村さんは、俯いた。耳が、少し赤かった。
「あれ、すごく嬉しかった」
「……そう」
「うん。あれがなかったら、あそこまで泳げなかった」
中村さんは、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「……よかった」
その声が、少しだけ震えているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
——中学卒業式。
僕と中村さんは、窓際の前後の席だった。小学校の頃から、いつもお互いに軽口を叩く仲だった。なのに、その日は、中村さんがおとなしかった。前の席だから、顔色をうかがうこともできない。何かあったのか、と聞くこともできなかった。
卒業式が終わり、教室に戻る。担任の田口先生が教室に入ってくる。一人ひとりに言葉をかけながら、教壇の前で卒業証書を渡していく。
僕の番が来た。教壇の前に立つ。田口先生は、卒業証書を差し出しながら、僕の目をまっすぐ見て言った。
「お前、入学したとき、学年で278番だったの、覚えてるか」
突然の言葉に、面食らった。覚えている。287人中、278番。下から10番目。あの頃の僕は、勉強も運動も、何もできなかった。
「それが、最後の試験で、4番だ」
田口先生は、卒業証書を僕の手に握らせた。
「三年間、お前のことを見てきた。お前は、不器用だ。要領も悪い。最初は、何をやってもダメだった。でも、お前は、最後まで諦めなかった。不器用なやつは、最後まで諦めない。それが、お前のいいところだ」
田口先生は、それだけ言って、次の生徒の名前を呼んだ。
僕は、自分の席に戻りながら、しばらく動悸が収まらなかった。田口先生が、そんなふうに僕を見ていたなんて。あの、水着が脱げて笑われた日も。あの、リレーで必死に泳いだ日も。先生は、ちゃんと、僕を見ていたんだ。
そして、卒業証書を渡し終えたあと、僕はいつもの軽口の調子で、中村さんに言った。
「お互いギリギリ卒業できてよかったなー」
振り向いた中村さんは、目に涙を浮かべていた。
僕は、戸惑った。何か悪いことを言っただろうか。でも、中村さんは、すぐに笑った。
「……ほんとだね。ギリギリだった」
その声は、少しだけ震えていた。僕は、その意味を、当時は理解できなかった。
中村さんとは、高校は別々だった。幼馴染だからこそ、わざわざ連絡先を聞くこともなかった。また、どこかで会えるだろう、と思っていた。それが、最後になるなんて、思わなかった。




