第一章 犬かきの夏
塩素の匂い。それは今でも、僕の嗅覚のどこかにこびりついて離れない。
小学六年の夏。体育の授業で長距離泳大会が行われた。プールサイドには歓声と笑い声が溢れ、クラスメイトたちが次々と足をついて脱落していく。
その中で、一人の少年が静かに水面を滑っていた。
大神だ。水泳教室に通う彼は、僕らとはまるで違う生き物だった。無駄のないフォーム。一定のリズム。呼吸ひとつ乱さず、1000メートルを泳ぎ切って、プールサイドに軽やかに上がった。
「これくらいで大丈夫です」
爽やかに微笑む大神に、周囲が賞賛の声を送る。僕もその一人だった。心から、すごいと思った。
——そして、その傍らで。
僕は必死に水面を叩いていた。
頭を大きく振り上げ、腕を無我夢中で前へ前へと繰り出す。泳法なんて呼べるものじゃない。ただの犬かきだ。水を押しのけるというより、水と格闘しているに近い。肩は悲鳴を上げ、呼吸は浅く荒くなる。
それでも、足をつかなかった。
なぜそこまでしたのか、今でもうまく説明できない。ただ、止まったら負けだと思った。誰に言われるでもなく、自分の中で勝手に始まった勝負だった。
終了の合図が鳴ったとき、僕の泳いだ距離は550メートルだった。
水泳教室の経験者——大神——を除けば、誰よりも長い距離だった。
プールサイドに上がった僕を待っていたのは、賞賛ではなく——爆笑だった。
「そこまでして成績あげたいのかよ!」
香園が、指をさして笑う。いつも教室の真ん中にいて、一番声が大きい男子だ。
「だっせー! なんだよあの犬かき!」
鴛海が、香園に続く。香園が笑えば鴛海も笑う。鴛海が笑えば、他の何人かも笑う。連鎖だった。
顔が熱い。水中の熱とは違う熱が、目頭に込み上げる。
そして、何より僕の心を深く傷つけたのは——
指導者であるはずの体育教師までが、一緒になって腹を抱えて笑っていたことだった。
南城先生。五十歳。強面で、白髪混じりの角刈り。眉は太く、目つきは鋭い。でも、なぜか人気を取りたかった。だから、授業の合間によくダジャレを言った。
「おい、熊がくまったなぁ」
誰も笑わない。先生は、少しだけ寂しそうな顔をして、すぐに真顔に戻る。
「ふとんがふっとんだ」
また、誰も笑わない。教室の空気が、少しだけ冷たくなる。
「ダジャレをいうのはだれじゃー」
自分で言って、自分で苦笑いする。誰も、笑わない。
僕は、先生がかわいそうだと思った。笑ってあげたほうがいいのかな、と一瞬思った。でも、笑えなかった。先生のダジャレは、面白くなかったから。そして——先生が、僕を笑いものにする日が来るなんて、そのときは思わなかった。
その日、南城先生は、僕の必死の犬かきを見て、腹を抱えて笑った。クラスメイトと同じ顔で。大人が。教える立場の人間が。僕の必死さを、笑いものにした。
その瞬間、僕の中の何かが、静かに壊れた気がした。
——だが、嘲笑の渦の中で、ただ一人だけ笑っていない人間がいた。
大神だ。
大神が転校してきたのは、小学六年の五月だった。朝の会で、教壇に立たされた大神は、ぼそぼそと自分の名前を言った。警察官の親の仕事で、転校が多くて、この学校にも一年しかいられないかもしれない、と。クラスメイトは「ふーん」と聞き流していた。
休み時間。大神は、誰とも話さず、窓際の席で一人でいた。僕も、一人でいた。話しかけようと思えば、話しかけられた。でも、僕は話しかけなかった。話しかけても、また転校するんだろうな、と思ったから。友達になっても、すぐに別れるんだろうな、と。大神も、僕に話しかけてこなかった。お互い、一人だった。でも、一人同士が、一人でいるだけだった。
1000メートルを軽やかに泳ぐ本物のスイマーであった大神は、犬かきで550メートルを泳ぎ切ることがどれほどの絶望的な運動量で、どれほどの精神力を使うか——理屈ではなく、感覚で理解していたのだと思う。水泳だけを拠り所にしていた大神だからこそ、死に物狂いで泳ぐ僕の姿に、他のクラスメイトとは違う何かを見たのかもしれない。
大神は何も言わなかった。慰めも、賞賛も、なかった。
でも、笑わなかった。
その静かな視線だけが、あの日、僕の心に残された唯一の救いだった。
——南城先生は、笑った直後、一瞬だけ、ばつの悪そうな顔をした。でも、すぐにいつもの強面に戻って、何事もなかったように授業を再開した。僕はその一瞬を見逃さなかった。でも、当時の僕には、その意味がわからなかった。先生も、自分のしたことに気づいて、後悔したのだろうか。それとも、気のせいだったのだろうか。今でも、わからない。




