第四章 窓辺のマネージャー
工場の廊下は、いつも机油の匂いがする。それが、私——人見(旧姓・中村)美咲の日常だ。
生産管理のマネージャーになって、もう五年になる。現場から叩き上げで、気づけばこの立場になっていた。面倒見の良さを買われた、と田村工場長は言うけれど、自分ではよくわかっていない。ただ、目の前の仕事を、淡々とこなしてきただけだ。
家に帰れば、夫がいる。社内結婚で、夫は本社勤務。子どもには恵まれなかった。穏やかな暮らし、と言えば聞こえはいい。でも、ときめきという言葉は、もう何年も使っていない。夫とは、同じ屋根の下で、別々の時間を生きている。それでも、生活は回る。回さなければならない。
だから私は、仕事に熱を入れる。田村工場長は「私生活が平凡でつまらないから、仕事に熱を入れているんだな」と理解している。半分、当たっている。でも、半分は違う。その理由を、私は誰にも言わない。
——あの人が、初めて工場に来たのは、十年前だった。
本社棟へ続く渡り廊下を、スーツ姿の男が歩いていく。コンサルタントの、あの人だ。田村工場長が「本社からコンサルが来る」と言っていた。私はそのとき、生産管理のリーダーになったばかりで、工場の窓から何気なく外を見ていた。
すぐに、わかった。
幼馴染の、あの子だ、と。
中学校の卒業式以来、一度も会っていなかった。名字も変わった。彼も、私に気づいていない。まさか、ここで再会するとは思わなかった。
——でも、最初は、がっかりした。
お腹が出て、歩き方もどこか重たげで、顔も疲れていた。あの、プールで必死に犬かきをしていた少年は、どこに行ってしまったんだろう、と。声をかける気にはなれなかった。声をかけたところで、何を話せばいい? 「元気?」——そんな言葉が、あまりにも空虚に思えた。
あの日のリレー。彼が水着を脱げかけて、全校生徒に笑われたこと。私は、あのとき、精一杯の「頑張って!」を彼に送った。届いたかどうか、わからない。でも、あの日の彼は、格好よかった。必死で、不格好で、それでも、全力だった。
その面影は、どこにもなかった。
それから、何年か経った。
あの人が工場に来るのは、半年に一度か、一年に一度。本社と工場は離れているから、彼の仕事のほとんどは本社で行われているらしい。工場に来るのは、視察か、何かの折にだけ。だから、私が彼の姿を見かけるのも、本当にたまにだった。
でも、そのたまにが、妙に記憶に残った。
最初の頃は、変わらなかった。お腹が出て、疲れた顔で、重たげに歩いていた。ああ、やっぱりあの少年はもういないんだな、と、どこかで諦めていた。
でも、ある時——
あれ、と思った。お腹、引いてない?
スーツのラインが、少しだけ変わっていた。歩き方が、前より軽い。気のせいかもしれない。でも、気のせいにしては、印象が違った。
それから、また半年後。
あの人が、渡り廊下を歩いていく。背筋が、伸びていた。顔つきも、前より精悍になった気がした。何があったんだろう。ダイエット? 運動? まさか、また泳ぎ始めたとか?
気になって、田村工場長にそれとなく聞いてみた。でも、返ってきたのは「コンサルタントらしいですよ」という、当たり障りのない情報だけだった。中身は、わからない。本社で何をしているのか、工場の私には見えない。見えるのは、身体つきの変化だけだった。
わからないから、余計に気になる。
そして、また半年後。
あの人の身体は、さらに引き締まっていた。スーツが、似合うようになっていた。歩き方に、自信のようなものが滲んでいた。あの頃の少年が、少しだけ戻ってきたみたいだ、と思った。
——気づけば、私は窓の外を、彼の姿を追うようになっていた。
仕事の合間に、ふと窓を見る。彼が来る日は、なぜかわかる。半年に一度か、一年に一度の、たまの再会。声は、かけない。かけられない。私は名字が変わった。彼は、私に気づいていない。それでいい。それで、いいはずなのに。
淡い想いが、また少しだけ、蘇っていく。
——今日は、彼が工場に来る日だ。
田村工場長が、彼を連れてきた。「人見さん、紹介するよ。本社のコンサルタントの方だ」
私は、平静を装った。
「人見です。生産管理を担当しています」
「——よろしくお願いします」
彼が、頭を下げる。私を、見る。でも、その目に気づきはない。ただの、初対面の挨拶。当然だ。私は名字が変わった。容姿も、中学校の頃とは違う。彼が気づかないのは、無理もない。
田村工場長が、余計なことを言う。「人見さんはね、既婚者でね。女性リーダーとして、生産管理を引っ張ってくれているんだよ。現場から叩き上げの、頼れる右腕だ」
「——それは、心強いですね」
彼が、そう言う。淡麗な容姿、と自分でも思う。でも、彼の目に、私の中身は映っていない。幼馴染の中村さんは、どこにもいない。ただの「人見さん」だ。
挨拶を交わす、程度の間柄。それだけ。
——でも、その夜。
家に帰って、夫と夕食を食べながら、私はぼんやりと考えていた。今日、彼と話した。ほんの、数秒。名前も、名乗っていない。でも、声を聞いた。目を見た。それだけで、胸の奥が、少しだけ熱くなった。
バカみたいだ、と思う。五十を超えて、何をやっているんだろう、と。夫は、テレビを見ている。私の心の中なんて、知らない。それでいい。それで、いいはずなのに。
——あの人が、また来ている。
今日も、窓から彼の姿を追いながら、私は思う。声をかけたら、どんな顔をするだろう。でも、かけない。かけられない。私は名字が変わった。彼は、私に気づいていない。それでいい。それで、いいはずなのに。
淡い想いが、また少しだけ、蘇っていく。
窓の外を、あの人が歩いていく。背筋を伸ばして、まっすぐに。
——その夜。
夫が、テレビを見ながら言った。「そういえば、お前の中学の同級生って、この辺にいるんだって?」
「……どうして?」
「いや、この前、本社でそんな話を聞いてさ。コンサルタントの人が、お前の中学の同級生だって」
心臓が、跳ねた。でも、私は平静を装った。
「へえ。知らない」
夫は、それ以上聞かなかった。テレビに、目を戻した。
——知らない、と嘘をついた。
あの日の「頑張って!」の続きを、言えずにいる。言える機会は、すぐそこにあった。でも、私は、言わなかった。
キッチンに立って、皿を洗いながら、私は思う。いつか、言える日が来るのだろうか。いつか、あの日の続きを。
蛇口の水が、やけに冷たく感じられた。




