歴史とは日常の堆積
パチンコを打ち続けるというのは実はなんて事はない。
パチンコを打っているということが特別という感覚が、私のどこかにあったのだと思う。
所詮は遊戯なのだから、私はある種ゲームしている子供と変わらないという事実に気づいてしまうことがある。
パチンコを楽しむ、楽しんでいた人間は、段々と脳が冷えていく、演出というものがパチンコには存在するが、昨今のパチンコは当たる時の演出をある程度自分で弄れてしまう。
遊戯のあり方をこちらである程度変えてしまえるのだ。
そんな当たる時がはっきりしてしまったパチンコの結末は、演出が発生しない区間の退屈が問題になってしまうのだ。
ただ現代というのはとても優しい、退屈であるならスマホをいじっていれば良いだけなのだ。
ありがたい事にスマホの充電ポートもある、しかし、人間は思考をしてしまう生き物である。
なんと哀れだろうか、パチンコという遊戯に時間をくれてやっているというのに、実際に遊戯している時間のほとんどは、あまりにも無意味な虚無の思考に多くの時間を費やしているのだ。
その思考の間にも尋常ではない速度で、金というものは減っていくのである。
それを真正面から受け止められるだろうか?不可能だ。
私たちは総じて既に狂気に身を落としているし、正気を保つために、自身の記憶というモノを操作する事に長けるしかないのだ。
もちろん精神防衛は実行した上で自分の欲求に従った行動という矛盾すら忘却しなければいけない。
既にパチンコに行ったという矛盾が自分の行動を行動を肯定する理由を与えられないのだ。
このエッセイはどうしようもない哀れな日常の堆積を掘り出しているにすぎないのだ。
私は自身の過去というものに、一切の価値がない事に気づき始めてしまっている。
前回のパチンコエッセイもそうだが、自身の無意味な過去に気づいてしまうことが嫌になっているのだろう。
私は今回こそ、己の過去と向き合い、自身の未来をどうすべきか選択する必要があるのだ。




