第18話 糸口
宰相補佐官グイドが古文書館の重い扉の向こうに消えた。窓の外では、音もなく雪が降り続いている。その静寂が、かえって室内の息苦しさを際立たせた。
侍女のロゼッタが、主の背後で小さく咳払いをする。その微かな音さえ、この静寂の中では石を投げ込んだかのように大きく響いた。
相対するシエナ王女。
カイは彼女を見るのを避けた。視線を上げれば、灰青の瞳に射抜かれる気がしたのだ。
その時だった。
カイの外套が不自然にもぞりと動いた。中で何かが蠢き、居心地悪そうに体勢を変えている気配。カイは内心で舌打ちをした。どうやら最悪のタイミングで目を覚ましたらしい。
シエナの鋭い視線が、一瞬だけカイの胸元に向けられた。カイは咄嗟に腕でその部分を隠そうとするが、もう遅い。
外套の隙間から、ぷるん、とゼリー状の半透明な何かが、躊躇いがちに顔を覗かせた。それは好奇心に満ちた目で室内をきょろきょろと見回し、やがてシエナの姿を捉えた瞬間、ぴたり、と動きを止めた。
数秒の静止。
やがて、その半透明の体は喜びを示すように淡いピンク色に染まり、内部の光る核が嬉しそうに明滅した。
そして、声帯も持たないはずのその奇妙な生命体は、スピーカーのように明瞭な、しかしどこか幼い声で叫んだ。
「シエナ……? シエナだ! 久しぶりー!」
その声が響いた瞬間、古文書館の凍てついた時間が、粉々に砕け散った。
シエナの灰青色の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「……プリル……?」
掠れた、ほとんど吐息のような声。
カイの外套から完全に抜け出したプリルは、嬉しそうに空中を跳ね、まっすぐにシエナへと飛んでいく。
氷の仮面が、薄氷のように罅割れる。その下から現れたのは、無防備な少女の顔だった。
「プリル……!」
その瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。彼女はたまらず駆け寄り、両腕を広げて、空中で跳ねるその小さな体を、壊れ物を扱うように、それでいて力強く抱きしめた。
「生きていたのね……! よかった……本当に……!」
プリルはシエナの腕の中で、心地よさそうに体の形をくねらせ、その涙に濡れた頬に、自らのぷるぷるとした体を優しくすり寄せた。
突然の光景に、カイも呆然としていた。
だが、それ以上に固まっているのはロゼッタだった。彼女の視線は、主君と得体の知れないゲル状の物体との間を、何度も往復している。口が半開きになり、いつもの冷静な表情が完全に崩れていた。
しばらくの間、シエナはプリルを抱きしめたまま、静かに涙を流していた。
やがて彼女は、濡れた睫毛を瞬かせ、プリルの体をそっと胸の高さに抱き上げる。そして——カイに向き直った。
その灰青色の瞳から、先ほどまでの刺々しい警戒は消えていた。けれど、その奥には別の光がある。嵐の前の海のような、底知れない緊張。
「……北の街、ロッカが龍に襲われたと、報告書で読みました」
シエナは、言葉を慎重に選びながら、静かに切り出した。彼女の声には微かな震えがあった。
「街は壊滅し、多くの犠牲者が出た、と。……そして、その現場に、『狂気の賢者』がいたという噂も……耳にしました」
王都にまで届いた、断片的な情報。それは、ベルクト・ファロスという男の死を、伝説の一幕のように、あるいは忌まわしい厄災の終焉のように伝えていた。
彼女はカイの目を、射抜くように見つめる。絶望の淵に立ちながらも、決して目を逸らさない者の瞳。カイは——その光から、目が離せなくなった。
「カイ、と言いましたね。あなたは、その場にいた。……噂ではない、本当のことを、あなたの口から聞かせて」
沈黙が落ちた。
カイは口を開こうとして——閉じた。もう一度開いて——また閉じた。
言葉が出ない。
脳裏に、あの日の光景が灼きつくように蘇る。燃え盛るロッカの街。天変地異のような魔法の応酬。そして、自分を庇い、血に濡れた大地に崩れ落ちた——ベルクトの姿。
カイの手が、知らず知らずのうちに、外套の裾を握りしめていた。指が白くなるほど強く。
長い沈黙の後、ようやく口が開いた。
「……ベルクトは」
乾いた声だった。掠れて、低く、感情を押し殺したような。
「……死んだ。ロッカで、成龍ヴォーラと戦って……俺を、庇って。致命傷を、負った」
カイの言葉は淡々としていた。上手く説明できない。 あの日の熱。燃える空。雷鳴のような咆哮。そして、崩れ落ちた老人の、あまりに軽かった身体。
カイは拳を握りしめた。爪が食い込む痛みが、現実を繋ぎ止める。
彼は語り始めた。ベルクトが最後の力で放った、自らの生命そのものを触媒とする禁断の魂魄魔法。ヴォーラの魂の律動を掻き乱し、カイに勝機を作り出したこと。そして、息絶える直前、カイの腕の中で遺した最後の言葉を。
「『王都ルステラのシエナを頼む』……それが」
カイの声が、一瞬だけ詰まった。喉の奥が、熱く締めつけられる。
「……ベルクトの、最期の言葉だった」
語り終えたカイは、固く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。手のひらには、爪が食い込んだ痕が赤く残っている。
シエナは、カイの話を黙って聞き終えると——ただ一言、「……そう」とだけ呟いた。
その声は、雪のように静かで、深く、多くのものを含んでいた。
彼女の視線が、一瞬だけ宙を彷徨った。唇が微かに動く。何か言いかけて——飲み込む。そしてまた、カイを見た。
あのベルクトが、誰かを「庇って」死んだ。その事実への驚き。自分が対峙できなかった相手が、もうこの世にいないという喪失感。そして——その最期を看取った目の前の少年への、測りかねるような強い興味。
それらすべてが、彼女の灰青色の瞳の奥で、複雑に交錯していた。
重苦しい雰囲気を破ったのは、他ならぬプリルだった。
シエナの腕の中で、彼女の悲しみを敏感に感じ取ったのか、プリルは心配そうに体を震わせ、シエナの顎をぷにぷにと突いた。
「シエナ、お腹すいたー」
その唐突な言葉に、張り詰めていた空気がふっと緩む。
シエナは思わず、というように小さく吹き出した。涙の跡が残るその顔に、ようやく柔らかな笑みが戻る。
その一瞬の変化に——カイは、心臓が跳ねるのを感じた。慌てて視線を逸らす。壁。書棚。羊皮紙。どこを見ればいいのかわからない。
「ふふ……ごめんなさい、プリル。あなたは相変わらずね」
彼女はそう言うと、まるで宝物を扱うかのようにプリルを抱き直し、優しく撫でた。
「お腹が空いたの? そうよね、大変だったものね。ロゼッタ、厨房に言って、蜂蜜をたっぷりかけた温かいミルクと、ベリータルトを持ってこさせてちょうだい」
「は……しかし王女様、そのようなものを、この……物体に与えるのはいかがなものかと……」
ロゼッタが困惑しきった声で反論する。彼女の視線は、プリルとシエナの間を行ったり来たりして、どこに着地させればいいのか迷子になっていた。
だが、シエナは全く聞いていない。彼女はプリルの体に頬ずりしながら、うっとりとした声で囁きかける。
「ああ、プリル……なんて可愛いのかしら。昔と少しも変わらないわ。あの人はあなたに酷いことをしなかった? 大丈夫? これからは私がずっと一緒にいてあげるから、もう何も心配いらないのよ」
「えへへー、シエナ、あったかーい」
やがてシエナは、はっと我に返ったように顔を上げた。
彼女の視線が、カイを捉える。
数秒の沈黙。そして——彼女の瞳に、ある種の決意が灯った。
「ロゼッタ」
声の調子が変わっていた。先ほどまでの少女の柔らかさが消え、王族の凛とした響きが戻っている。
「宰相閣下には、『龍殺し』を、わたくしの護衛として正式に任ずる、と伝えなさい」
「……承知いたしました」
ロゼッタは深々と一礼した。そして立ち上がる前に、ちらりとカイの方を見た。その瞳には、未だに困惑と、ほんの少しの不承不承といった色が浮かんでいた。
古文書館の大きな窓の外では、雪がさらにその勢いを増していた。降りしきる雪が、王都の喧騒も、人々の感情の澱みも、すべてを白く塗りつぶしていく。
カイは、窓の外を見ていた。
ベルクトの最後の言葉が、胸の奥で木霊する。
——『シエナを頼む』。
彼の視線が、ちらりとシエナへ向かった。プリルを抱きしめる、その横顔。
すぐに、視線を窓へ戻す。
……何を頼まれたのか。どうすればいいのか。まだ、わからない。
けれど——ひとまず、辿り着いた。それだけは、確かだった。




