第19話 沈黙と小さな光
絹が擦れる、乾いた音。
カイの耳には、その音だけがやけに大きく響いていた。三歩前を行くシエナ王女のドレスが、歩みに合わせて微かに揺れる。陽光を弾く金糸の刺繍、規則正しく編み込まれた陽だまり色の髪。背筋はどこまでも真っ直ぐに伸びている。
会話はない。
遠巻きに囁き合う侍女たちの声が、壁に反射して届く。
「まあ、あの方が“龍殺し”様……」
「お噂とは違って、ずいぶんと……地味な方」
「もっとこう、岩のような大男かと」
カイは視線のやり場に困っていた。
真正面はシエナの背中。見つめ続けるのも妙だ。かといって周囲をきょろきょろ見回すのも落ち着かない。結局、視線は床の石畳と、時折すれ違う侍女の靴先を行き来するだけだった。
革鎧の肩当てが、歩くたびに襟元を擦る。戦場仕様の装備は、磨き上げられた回廊にはひどく場違いだった。
その日の午後、シエナは談話室の肘掛け椅子で、一冊の書物を開いていた。窓の外では庭師が薔薇の手入れをしており、鋏の音が小気味よく響いている。
しかし、彼女の灰青色の瞳は、同じ行を何度もなぞるばかりで、一向に先に進まなかった。
壁際に立つ気配が、どうにも落ち着かなかった。
シエナもまた宮廷内の誰とも違った気風のカイと、どう接するか悩んでいた。
その時カイの外套の襟元がもぞりと蠢き、半透明の塊がするりと抜け出す。床にぽてりと着地したプリルは、数度ぷるぷると震えると、一直線にシエナの足元へと滑っていった。そしてしなやかに跳躍し、彼女の膝の上に着陸する。
「まあ、プリル」
シエナの声色が甘く柔らかな音になる。
「そこにいたのね。寂しかったのよ?」
人差し指で表面をそっと撫でると、プリルは心地よさそうに体を波打たせ、淡い桜色に染まった。シエナはくすくすと喉を鳴らし、今度は指先でプリルの体を軽くつつく。
「ふふ、こしょばゆいのね。相変わらず甘えん坊さんね、あなたは」
プリルは、その指にじゃれつくように体の一部を触手のように絡ませ、きゅ、と鳴いた。シエナはもう片方の手でそれを包み込むように撫で、頬を緩ませる。 口元には、年相応の少女の笑みが浮かんでいた。
一通りじゃれ合った後、シエナは名残惜しそうに指を離すと、ふと思い出したように口を開いた。視線はプリルに向けられたままだ。
「そういえばプリル、あなた、あの人とずっと旅をしていたのね。……どんな旅だったのかしら」
問いかけは、ほとんど独り言に近かった。プリルはシエナの顔をじっと見つめ、内部の光る核を数度、明滅させる。
そして、唐突に、しかし完璧な精度で、カイの声を紡ぎ出した。
『——だから、そのキノコは毒だと何度言えば……! 美しいかどうかは問題じゃない!』
シエナの肩が、ぴくりと跳ねた。それは紛れもなく、隣にいる青年の声だ。
壁際から、「ぐっ」と息を呑む気配がした。
プリルは、まるで舞台役者のように、得意げに「公演」を続ける。
『またガラクタを……! なけなしの金で! いい加減にしてくれ、あの爺さん!』
次々と暴露される、間の抜けたぼやきの数々。
シエナは最初、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まっていた。 視線が、ゆっくりと壁際のカイへ向く。
カイは、顔を覆いたかった。 だが護衛が顔を隠すわけにはいかない。彼は直立不動のまま、視線を床の継ぎ目から、さらに奥の壁の染みへと必死に逃がしていた。耳だけが、火がついたように熱い。
シエナの肩が震えた。 袖で口元を隠したが、指の隙間から、堪えきれない音が漏れる。
「ふっ……く、くす……」
限界だった。
「あ、ははっ……!」
銀の盆を落としたような、賑やかな笑い声。 王女としての品位も、取り繕っていた仮面も、すべてが弾け飛んでいた。彼女は腹を抱え、涙目になって笑い続けた。
「こ、こいつは……余計なことしか、覚えない……」
絞り出すようなカイの声が、部屋の隅から聞こえる。その声はひどく掠れていた。
シエナは涙を拭いながら、ようやく笑いを収めた。膝の上のプリルを優しく撫でる。プリルは公演を終えて満足したのか、すやすやと寝息を立て始めている。
再び静寂が戻った。
だが、部屋に漂っていた息苦しさは、もうどこにもなかった。




