第17話 灰青色の瞳
エステ砦での鮮烈な勝利から数週間が過ぎた。王都は冬の訪れを告げ、人々の吐く息は白い。
与えられた部屋は、元行商人のカイには広すぎた。上等な絨毯は歩くたびに音を吸い込み、壁の装飾は視線のやり場に困る。 唯一、彼が気を許せるのは暖炉の前だけだった。パチパチと爆ぜる薪の音。オレンジ色の光。満腹になった腹が、温かさに包まれて緩んでいく。
瞼が重い。意識が、まどろみの底へ落ちていく。
「ぷりゅ?」
彼の膝の上で丸まっていたプリルが、不意に顔を上げた。半透明のゼリー状の身体が、暖炉の光を乱反射させてきらめいている。その小さな核のようなものが、扉の方を向いて微かに明滅した。
直後、重厚な扉がノックされた。
カイは弾かれたように顔を上げた。慌てて口元の涎を拭う。 返事をする前に、扉が音もなく開いた。
「失礼いたします、カイ殿」
現れたのは、宰相補佐官のグイドだった。細身の体に仕立ての良い服を纏い、感情の読めない銀縁眼鏡が光を反射している。 カイは居住まいを正そうとして、膝の上のプリルを床に落としそうになった。
グイドは一瞬だけ眉をピクリと動かしたが、すぐに張り付いたような笑みを浮かべた。
「カイ殿、宰相補佐官のグイドです。閣下からの伝言を預かって参りました」
扉の向こうから聞こえてきたのは、滑らかで、感情の抑揚を巧みに隠した男の声だった。カイが短く応じると、音もなく扉が開き、長身痩躯の男が入ってくる。
グイドは室内を一瞥し、カイの前に立つと、完璧な角度でお辞儀をした。
「閣下より、貴殿に新たな任務が与えられました」
グイドは懐から一通の羊皮紙を取り出し、テーブルに置いた。蝋で固く封印された、王家の紋章。
「本日より、シエナ・アウレリア王女殿下の護衛を拝命していただきたい」
シエナ。
その名を聞いた瞬間、カイの指先が、僅かに動いた。
ベルクトの最期の声が、耳の奥で蘇る。血を吐きながら、それでも師が口にした名前。
「……王女が、どうかしたのか」
カイの問いに、グイドの完璧な笑みが消え、その目に深い憂慮の色が浮かんだ。
「カイ殿。王女殿下は、生まれながらにして『魂彩の鏡』という、あまりにも強大で……そして、あまりにも過酷なご祝福をその身に宿しておられます」
グイドは言葉を選びながら、静かに語り始めた。
「そのご祝福は、人の魂が放つ『色』を視る力。言葉や表情では偽れない、魂そのものの真実の色を、殿下は常に見ておられるのです」
彼は一度言葉を切り、暖炉の炎を見つめた。その揺らめきが、彼の眼鏡のレンズに反射している。
「想像できますか。この王宮という場所が、殿下にとってどれほど過酷か」
グイドの声が、僅かに低くなった。
「ここでは誰もが本心を隠し、己の欲望のために嘘をつく。殿下は日夜、その魂の汚濁を、その身に浴び続けておられる。それは決して癒えることのない呪いにも等しい」
カイは黙って聞いていた。暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
「結果として、殿下は完全に孤立しておられる」
グイドは続けた。
「廷臣たちは、心を読まれることを恐れて殿下を『魔女』と蔑み、遠巻きにするだけ。王宮という華やかな牢獄で、たったお一人で、魂の濁流に耐えておられるのです」
それだけではない、とグイドは言葉を継いだ。
「類稀なるお力故に、常に危険に晒されております。一方では、殿下のご祝福を己の権力闘争に利用しようと企む者たちがいる。そしてもう一方では、後ろ暗いことのある連中がその力を危険視し、殿下を亡き者にしようと画策する」
「……」
「閣下は、宮廷の悪意に染まらぬあなたなら、殿下にとって唯一無二の『盾』となりうる、と考えておられます」
盾、か。
カイは口の中で、その言葉を噛んだ。
ベルクトの弟子であること。ベルクトとシエナに交流があったこと。リカルドがそれを知らないはずがない。
沈黙が、数秒続いた。カイの視線は、テーブルの上の羊皮紙に落ちている。王家の紋章を見つめたまま、彼は動かない。
やがて、小さく息を吐いた。
「……分かった」
短い返答。グイドは満足げに頷いた。
「では、早速ですが王宮へ。殿下は古文書館にてお待ちです」
※※※※※※
王宮の回廊は、どこまでも冷たかった。
大理石の床が、靴底から体温を奪っていく。天井は高く、壁には歴代の王たちの肖像画が、色褪せた瞳で来訪者を見下ろしている。
すれ違う廷臣や侍女たちが、カイの姿を認めると足を止めた。好奇と値踏みの視線。足早に通り過ぎていく彼らの囁き声が、大理石の壁に反響する。
「あれが"龍殺し"……」
「宰相閣下のお気に入りだそうだ」
「田舎者めが、成り上がりおって……」
カイは足を止めなかったが、肩が僅かに強張った。
グイドに案内され、カイが足を踏み入れた古文書館は、吐く息が白くなるほどに凍てついていた。
貴重な古書を保管するため、火気は厳禁。天井まで届く書架が迷路のように林立する巨大な空間は、人の体温を容赦なく奪っていく。
首筋が粟立つ。兵舎の暖炉が、遠い記憶のように感じられた。
「王女殿下は、この奥に」
グイドが示したのは、書架の影に隠れるように設けられた、飾り気のない小さな扉だった。侍女の私室と言われても信じてしまいそうなほど、ひっそりとしている。
扉を開けると、壁際には書物が無造作に積まれ、使い古された小さなテーブルと椅子が一つ。部屋の隅で、申し訳程度に置かれた小さな銀の火鉢だけが、か細い熱を発している。
その火鉢の前に、ひとりの少女が座っていた。
厚手のショールに深く身を包み、膝の上で分厚い書物を開いている。
陽光そのものを紡いだような金色の髪。
カイの足が、一瞬、止まった。
その髪が、か細い火鉢の光を受けて、柔らかく輝いている。質素な部屋には不釣り合いな、眩しいほどの色彩。
かじかむ指先に、白い息を吹きかけながら、彼女は頁をめくる。その仕草にカイは一瞬、彼女がこの国の王女であることを忘れかけた。
あれが、シエナ・アウレリア王女。
彼女の傍らには、侍女のロゼッタが影のように控えていた。彼女はカイの姿を認めると、感情の読めない瞳で会釈だけをし、シエナを庇うように半歩前に出て、カイの一挙手一投足を監視する視線を送ってくる。
外では、その年最初の雪が、音もなく舞い落ち始めている。火鉢がぱちぱちと音を立て、外の静寂と不思議な対比を生んでいた。
カイの接近に気づき、書物から顔を上げた少女。
灰青色の瞳が、真っ直ぐに彼を捉えた。
冬の夜明け前の空のような色。静かで、深くて、どこか寂しげな——
その瞳が、一瞬、大きく見開かれた。
書物を持つ彼女の指先に、無意識に力が入る。ショールを掴む手が、僅かに白くなった。視線が揺らぎ、彼の顔から、外套から、腰の剣へと素早く走る。
けれど次の瞬間、少女は表情を凍らせた。唇を引き結び、顎を僅かに上げる。
「あなたが、噂の"龍殺し"ですね」
その声は、鈴が鳴るように美しいが、冬の薄氷のように冷え切っていた。
「宰相閣下の手駒が、私に何の用かしら」
以前のカイであれば、それだけで萎縮していただろう。目を逸らし、言葉を詰まらせ、逃げ出したくなっていたかもしれない。
だが今、彼はただ、師が最期に名を呼んだ少女を、静かに見つめ返した。
「本日より、貴女の護衛を拝命した。カイだ」
事実だけを告げる言葉。短く、余計なものがない。
シエナは、ふ、と息を吐いた。嘲るような、けれどどこか疲れたような吐息。
「不要です。お引き取りください」
取り付く島もない拒絶。 シエナは再び本を開き、カイへの関心を遮断した。 ロゼッタが「お出口はこちらです」と言いたげに、扉の方へ視線を向ける。
冬の古文書館は、ただ静かで、痛いほどに冷たかった。




