幕間3:投資の効果
屋敷は持ち主の虚栄心で塗り固められていた。応接室の壁には剥製が飾られ、磨き上げられた黒檀のテーブルは、床を軋ませるほどに分厚い。
そんな部屋の奥で、バルベーラ子爵は護衛兵を横に置き、ゆったりと腰掛けていた。指にはめた鷲獅子の指輪で、テーブルの縁を規則正しく、コツ、コツと叩いている。
情報屋風情の平民の女が、自分の仕掛けた刺客の罠をかいくぐり、今こうして己の前に座っている。その事実が、彼の神経を不愉快に逆撫でしていた。
カーラは、そんな視線を柳に風と受け流し、優雅な微笑みを浮かべていた。彼女の斜め後ろ、壁際の影に、カイは護衛として静かに佇んでいる。
「さて、ロッシ殿。わざわざ話とは、一体どのようなご用件かな?よもや、夜の誘いでもあるまい」
子爵が粘ついた声で切り出す。
「なにぶん、昨夜は“鼠”の始末で寝つきが悪くてな。用件は手短に願いたいものだ」
「まあ、それはお気の毒に。街の治安も近頃は物騒ですものね」
カーラはくすりと笑った。
「ですが、ご安心くださいませ。私の話は、子爵様にとってはきっと良い“目覚まし”になりますわ」
「ほう?」
カーラは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そして、まるでカードを切るかのように、テーブルの上を滑らせる。
「子爵様は、帳簿はお好きでいらっしゃいますか?」
羊皮紙が子爵の手元に止まる。彼はそれを一瞥すると、テーブルを叩いていた指がぴたりと止まった。しかし次の瞬間、何事もなかったように大げさな笑みを浮かべた。
「……ほう。こんな偽造文書で、この私を脅せると?」
「偽造かどうかは、然るべき場所で調べていただければ、すぐに判明することかと」
カーラは冷静に返す。
「これは王都の食糧庫の帳簿の写し…だそうですよ。もしこれが本当なら、“鼠”どころの騒ぎでは済みませんわね。国家に対する裏切り、と取られても仕方ありません」
静寂が、部屋を支配する。子爵のこめかみの血管が、ぴくりと痙攣した。彼はカーラから視線を外し、壁に飾られた、牙を剥く狼の剥製に目をやった。まるで、己の今の心境を代弁させているかのようだ。
「……何が望みだ?」
絞り出すような声だった。カーラは、とどめを刺すように、唇の端を吊り上げた。
「ご相談がありますの。アルニオ河岸に、主を失って寂しがっている倉庫がひとつございますでしょう? あの建物を、新しい主の元へ嫁がせてはいただけません? もちろん、手ぶらでとは申しません。かつての主が手放した時と同じだけの“対価”を、喜んでお支払いいたしますわ。そうすれば、こんな紙切れも二度と子爵のお心を騒がせることはありませんわ」
その言葉は、子爵のなけなしの理性を焼き切るのに十分だった。舐めていた女に、急所を的確に突かれた挙句、足元を見られている。その屈辱が、彼の顔を赤黒く染め上げた。
「……交渉決裂、ということだな」
子爵は冷たく言い放つと、立ち上がった。
「残念だよ、ロッシ殿。私は君を気に入っていた。私の“コレクション”に加えてやろうとさえ思っていたのだが…まあいい。お前たち、丁重に“おもてなし”してやれ」
子爵の号令。部屋の隅に控えていた護衛兵たちが、待ってましたとばかりに動こうとする
――それより先に、壁の染みだったカイが、動いた。
濁流のように荒れ狂う子爵の律動が決壊し、純粋な殺意が滲み出るのをカイは見ていた。護衛たちが主人の意図を理解するより先に、勝負は決する。
護衛たちの足元に水が生じ、それは瞬時に凍りつく。一瞬の足止めに過ぎないが、それで十分だった。
喉元に、ひやりとした硬質な感触。
「なっ……!?」
子爵の言葉は、音になることなく喉の奥に消えた。見れば、いつの間にかすぐ側に立っていたカイが、鞘に収まったままの短剣『星影』の柄頭を、子爵の首筋に突きつけていた。
護衛たちも慌てて剣を抜こうとするが、カイが星影に僅かに力を込めると子爵の首にジワリと血が滲む。
「な、何だ貴様は!?」
動揺し、声を裏返らせる子爵。彼の言葉を聞き、カーラは楽しそうに微笑んだ。彼女は優雅に立ち上がると、カイの腕にそっと自分の手を重ねる。その仕草は、まるでじゃれつく獣をなだめるかのようだった。
「まあ落ち着いてください。ここはあのロッカとは違うのだから。……大変失礼いたしました。この方はカイ様。今の王都で知らない方はおりませんから、子爵様もご存知でしょう」
カーラの言葉が、子爵の脳髄を雷のように撃ち抜いた。
ロッカ。カイ。――龍殺し。
なぜ、噂の英雄がここにいる? 一介の情報屋の女に与している?
その時、子爵の脳裏に一つの答えが過った。
「……リカルド閣下の、差し金か……」
リカルドは不正や汚職を嫌う男だ。これは自分を排除するために宰相が仕掛けた、巧妙な罠なのではないだろうか。財産を差し出して許しを請うか、断頭台に登るか選べというメッセージかもしれない。
過去、彼に睨まれて没落していった貴族たちの無残な末路が、走馬灯のように駆け巡った。
喉元に突きつけられた短剣の柄頭が、断頭台の刃の冷たさと重なる。ここで逆らえばどうなる? 護衛がカイを討ち、この女を始末したとして、あの帳簿の存在が消えるわけではない。むしろ、宰相直属の英雄に手をかけたとなれば、言い逃れの余地なく反逆者として断罪されるだろう。
屈辱に、腹の底が煮え繰り返る。この私が、娼婦の脅しに屈するのか。だが、天秤の片方にはプライドと一つの倉庫。そしてもう片方には、命、財産、家名、未来のすべてが乗っている。あまりにも、釣り合わない。
この取引は、もはや交渉ではない。宰相からの、最後の温情なのだ。倉庫一つでこの嵐が過ぎ去るのなら、安いものだ。そう己に言い聞かせると、子爵の体に張り詰めていた力が、糸が切れたように抜けていった。
「……わかった。倉庫の件は全て言う通りにしよう。これで手打ちにしてはもらえないか?」
平静を装っているものの、額からは脂汗が滝のように流れ落ちている。
子爵の口からなぜ宰相の名が出るのか分からず、怪訝な表情を浮かべた。だが、カーラは子爵の変わりように満足げに頷くと、扇子の影で楽しそうに口元を歪める。
※※※※※※
屋敷を出て、アルニオ河岸へと続く石畳の道を歩きながら、カイはカーラの横顔を盗み見た。冬の訪れを告げる冷たい風が、彼女の漆黒の髪を揺らしている。
「おい」
カイが口火を切る。
「全部、計画通りか?」
カーラは足を止め、カイの方へ向き直った。その蜂蜜色の瞳が悪戯っぽくきらめく。
「何のことかしら?」
「とぼけるなよ。俺が宰相閣下とやらの部下だと思われてることも、あの子爵がその宰相を極端に怖がってること、読んでたんだろ。あんたが俺をあの部屋に連れて行った時点で、こうなることは分かってたはずだ」
カイの声に怒りはなかった。カーラはくすりと笑うと、カイの胸に人差し指を立てる。
「あら、買い被りすぎよ。私にできるのは、せいぜいカードを配ることだけ。どのカードを引いて、どう使うか決めるのは、いつだって相手次第だわ」
彼女は指先でカイの胸をなぞりながら、吐息が触れるほど顔を近づけた。
「それに……たとえそうだとして、カイくんは不満だった?」
その問いに、カイは答えなかった。そんな彼の頬にカーラは触れるようなキスをした。
新しく手に入れた「旧オルシーニ商会倉庫」は、ひんやりとした空気と、埃と、乾いた木材の匂いに満ちていた。天井近くの窓から差し込む夕暮れの光が、空気中を舞う無数の塵を金色に照らし出していた。
「ここが、私たちの新しい“城”よ」
カーラは両手を広げ、満足そうに言う。彼女はカイに向き直ると、ゆっくりと、しかし確かな足取りで距離を詰めた。その蜂蜜色の瞳は、交渉の時の計算高い輝きとは違う、もっと濃密で、抗いがたい熱を帯びていた。
「勝利には、祝杯が必要でしょう?」
カーラはカイの唇に、自分の唇を重ねた。触れるだけの、優しい口づけ。だが、カイが応えるようにその腰を抱き寄せた瞬間、それは貪るような口づけへと変わった。
カーラの手がカイの背中に回り、指が硬質な筋肉の感触を確かめるように滑る。カイの手もまた、彼女の腰の柔らかな曲線を求め、きつく引き寄せた。唇が離れると、互いの荒い息遣いだけが、広い倉庫に響いた。
「気が早いのね、カイくん」
カーラは吐息混じりの声で笑うと、自らのドレスの肩紐に指をかけた。布地が滑り落ち、月明かりのような白い肌が現れる。彼女は躊躇いなくその身を晒し、カイの瞳を真っ直ぐに見つめた。
冷たくざらついた石の床に、脱ぎ捨てられた衣服が重なる。その上にカーラが身を横たえると、カイもまた、その上に覆いかぶさった。床の硬さと冷たさが、互いの肌を通して伝わる熱を、より一層際立たせる。
カーラの喉から、押し殺したような高い声が漏れる。天井から差し込む光が、汗に濡れた彼女の肌を照らし、苦痛とも恍惚ともつかない表情を浮かび上がらせる。
行為が終わっても、しばらくの間、二人は言葉もなく互いの体温を感じ合っていた。汗と、埃と、互いの匂いが混じり合った空気が、やけに濃密に感じられた。
忙しくて更新が遅れていますが、週一を目指して頑張ります




