幕間2:カーラの相談
王都ルステラは、英雄の帰還を歓迎する熱狂が嘘だったかのように、慌ただしい日常を取り戻していた。
そんな人波を抜け、カイは指定された場所へと足を運んでいた。王都でも屈指の大通りに面して堂々と建つ壮麗な石造りの建物。ガラス張りのショーウィンドウには、南方のエキゾチックな染物や、寸分の狂いもなく磨き上げられた銀食器が並んでいる。
王都有数の大店、カリマーラ商会の支店だった。
カーラからの手紙には建物の裏口が指定されていた。カイが分厚い木製の裏口の扉をノックすると、すぐに小さな覗き窓が開き、中から用心深い目が覗いた。
「……カイくん?」
くぐもった声の確認に頷くと、重々しい閂の音がして、扉が開かれた。
迎え入れたのは、どこか疲れた表情を浮かべたカーラだった。深緑色のビロードのドレスが、彼女の身体のラインを艶かしく包んでいる。
カイの視線が、ふと露わになった白いデコルテに吸い寄せられ――弾かれたように逸れた。彼は明後日の方向を見たまま、小さく会釈した。
「来てくれたのね。ありがとう」
ほっとしたように息をつき、カーラは素早くカイを中に招き入れる。背後で扉が閉まると、路地の喧騒が嘘のように遠のいた。そこは薄暗い石造りの廊下で、ひんやりとした空気に革製品と甘い香辛料の匂いが混じり合っていた。
「表からじゃなくて悪かったわ。ちょっと込み入った事情があって、ここに匿ってもらっているの」
「……すごいところだな」
カイは廊下の装飾に視線を向けた。壁に掛けられた異国の織物。磨き上げられた燭台。行商人時代には縁のなかった世界だ。
「カリマーラにコネがあるなんて」
「コネなんて、前はなかったわよ」
カーラは悪戯っぽく片方の口角を上げた。その表情は、カイの記憶にある彼女そのものだった。
「でも、最近できたの。……誰かさんのおかげでね」
意味深な言葉を残し、彼女は「こっちよ」とカイを促して廊下の奥へと進んだ。カイは、その言葉の意味を考えようとして——やめた。カーラの言葉の真意を読み解こうとすると、いつも余計に混乱する。
案内されたのは、豪奢な応接室だった。
カーラはカイを革張りのソファに座らせると、銀のポットで紅茶を淹れてくれた。立ち上る湯気の向こうで、彼女の横顔が揺れる。いつもの余裕が、どこか薄れているように見えた。
「それで、手紙にあった『危険』って話なんだが」
カイが本題を切り出すと、カーラはカップをソーサーに置いた。カチャリ、と硬質な音が静かな部屋に響く。
彼女は居住まいを正すと、テーブルの中央に一枚の古い羊皮紙を広げた。それは王都ルステラの詳細な地図だった。
「まず、これを見てくれる?」
カーラが指し示したのは、王都の中心を大河のように流れるアルニオ河の岸辺。水運の要衝であり、大小の船着き場が密集する一等地だ。
「『アルニオ河岸の旧オルシーニ商会倉庫』。今、王都で一番価値があると言ってもいい商業倉庫よ」
彼女の声に、熱がこもった。瞳が地図の一点に焼き付くように注がれている。
「ここを手に入れられれば、私の"商売"は一段も二段も上に行く。喉から手が出るほど欲しい物件なの」
「……それを、手に入れたい」
「そう。問題は、今の所有者」
カーラの唇が、侮蔑の形に歪んだ。
「バルベーラ子爵。絵に描いたような、いや、絵にも描きたくないような性悪貴族よ」
子爵の名を口にする時、彼女の声から普段の艶やかさが消えた。
「こいつは数年前、もともとの持ち主だったオルシーニっていう商人から、脅迫まがいの手口でこの倉庫を二束三文でぶん捕ったの。オルシーニは破産して、心労がたたったのか、その年の冬に死んだわ」
ぎり、とカーラがテーブルの下で拳を握りしめるのが見えた。
「奥さんと、まだ小さい娘さんを残してね」
短い沈黙。
「……当然、正当な取引なんて望める相手じゃない。私が交渉を持ちかけても、むこうはこちらの足元を見て、法外な値段をふっかけてくるだけ」
自嘲するような笑みが、彼女の唇に浮かんだ。
「こういう時、私みたいなのは立場が弱くて。貴族様には逆らえませんものね」
言葉とは裏腹に、その目は笑っていなかった。
「でも、ただで転ぶわけにはいかないから。いろんな手を使って、子爵の身辺を徹底的に洗わせたの。密輸、横領、収賄……いろんなネタを掴んだわ。それでようやく、あの子爵を直接交渉のテーブルにつかせることができることになったの」
「……脅すのか?」
「まさか」
カーラは肩をすくめた。
「これは取引よ。子爵の不正には目をつぶる。その代わり、倉庫を"適正な"価格で私に売却してもらう。ただそれだけ。でも……」
カーラはカイの目を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥に、僅かに怯えの色が浮かんでいる。
「交渉の前から、どうもきな臭いの。私の宿の周りをガラの悪い連中がうろつくようになったり、後をつけられているような気配があったり。子爵が差し向けた脅しでしょうね」
彼女は一度言葉を切り、カイを見つめた。
「だから交渉の当日、私の護衛として、隣にいてほしいの」
カイは黙って聞いていた。
いつもどこか手玉に取られているような感覚のあったカーラが、自分のことを必要としている。
その事実を、カイは咀嚼しようとした。胸の奥で、何かがくすぐったく動く。だが、それが何なのかは、よくわからなかった。
短い沈黙の後、彼は口を開いた。
「……わかった」
一拍。
「引き受ける」
「ほんと?」
カーラの顔からふっと力が抜けた。それは、普段の彼女とは違う、素直な安堵の表情だった。
「ただ」
カイは付け加えた。
「交渉には参加しない。俺はあくまで護衛だ」
「ええ、もちろんよ! 側にいてくれるだけでいいわ。ありがとう」
その笑顔に、カイは何と返していいかわからず、小さく頷いた。
交渉は三日後と決まった。詳しい時間と場所は、前日に連絡がいくことになった。
話がまとまった丁度、その時だった。応接室の扉が控えめにノックされ、身なりの良い一人の初老の男が入室してきた。
「これはカイ様。ようこそお越しくださいました」
男は——カーラには形式的な会釈を向けただけで——その視線のほとんどをカイに集中させた。
「私、このルステラ支店を任されております、ゲオルグと申します」
そして、まるで国王にでも拝謁するかのように、深々と腰を折った。
カイの眉が、僅かに動いた。
「エステ砦でのご武勇、かねがね聞き及んでおります。国家の安定は我々商人にとってもこの上ない喜び。何かお困りのことがございましたら、何なりとこのゲオルグに。当商会の総力を挙げてお力添えさせていただきます」
淀みのない言葉。深すぎるお辞儀。
カイは何か返そうとして——言葉が出てこなかった。
この男は、自分に何を期待しているのだろう。
曖昧に頭を下げ返す。それが精一杯だった。
支店長は、その反応を——どう解釈したのか——ますます恭しい態度で、カイを見送った。
分厚い扉が背後で閉まり、カイは再び裏路地の埃っぽい空気に包まれた。
王都の夜景は光と影が複雑に絡み合っている。




