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幕間1:相談

 エステ砦の勝利は、王都を熱病に浮かされたような喧騒で満たした。カイはその熱狂の渦中にいながら、まるで嵐の目の中にいるかのように、奇妙な静けさと居心地の悪さを感じていた。


「まあ座りなさい。長旅と戦で疲れたろう」


 宰相リカルドは、カイを執務室へ招き入れると柔らかく声をかけた。戸惑いながら重厚な椅子に腰を下ろすと、サイドテーブルから銀のポットが持ち上げられ、透き通った琥珀色の液体が二つのカップに注がれる。


「飲みながら聞いてくれ」


 差し出されたカップを、反射的に両手で包む。温かさが指先からじんわりと伝わってくる。


 目の前の男は、アウレリア王国で、王に次ぐ権力を持つ人物のはずだ。だというのに、その物腰は、年の離れた甥の将来を案じる心優しい叔父のようだった。


「まず、改めて礼を言わせてほしい。エステ砦での君の働き、実に見事だった。一人の英雄の出現がどれほど兵の士気を高め、国を救うか……痛感させられたよ」


 リカルドは穏やかに微笑み、カップに口をつける。その灰色の瞳が、真っ直ぐにカイを射抜いていた。


「ありがとうございます。ですが、俺一人の力では……」


「過度な謙遜は反感を買う。君は胸を張っていればいい」


  有無を言わさぬ響きだった。カイは口を閉じ、黙って茶をすする。苦みの奥に、ほのかな甘みが広がった。


「カイ。君の戦場での力は比類ない。誰もが認めるところだ。だが君はこれから、一兵士ではなく、多くの部下を率いる立場になる。そうなれば、個の武勇だけでは砕けない壁に必ず突き当たる」


 リカルドはカップを置き、指を組んだ。


「力ある者には、相応の地位と知識が要る。君を縛るためじゃない、逆だ。知識は君を次の高みへ導く。……そこで提案があるのだが、聞いてもらえるか」


 カイは、ただ頷くことしかできなかった。


「君に、軍議や専門家による講義へ参加してもらいたい。すべてを理解しろとは言わん。この国がどう動き、我々が何を守るために戦うのか、その大きな流れを知るだけでも君の視野は大きく広がる」


 行商人時代、カイは無知ゆえに何度も痛い目を見てきた。偽物の宝石を掴まされ、悪徳商人に買い叩かれ——その記憶が、脳裏をかすめる。


 リカルドの提案は、理に適っていた。


 だがそれ以上に、国の頂点に立つ男が、自分のような若輩を真剣に案じている。その視線に、嘘の色は見えない。


 数秒の沈黙。


 やがて、小さく息を吐く。


「……ありがとうございます。俺に、できることなら」


 その返答に、リカルドは満足げに深く頷いた。その瞳の奥に、計算高い光が一瞬よぎったのを、カイは知る由もなかった。



 ※※※※※※



 数日後。王宮の一室、澱んだ空気が支配する会議室の末席にカイはいた。


 目の前には分厚い羊皮紙の束。国境の兵站、隣国カドゥーカの商業ギルドの動向、穀物の収穫予測。細かな文字と数字が、理解を拒むように紙面を埋め尽くしている。


 長いテーブルを囲むのは、歴戦の将軍や神経質そうな文官たち。彼らの口から漏れるのは、異国の呪文にしか聞こえない言葉の応酬だ。


 最初の数分は、議論を追おうと試みた。


 だめだった。


 資料から目を離す。磨き上げられたテーブルに映る自分の顔が、ひどく場違いに見えた。


 時折、リカルドが気遣うような視線をこちらへ送ってくるのがわかる。しかし彼はあえてカイに話を振ることはせず、議論の中心で的確な指示を飛ばしている。


 カイを案じて隣に座っていたルキウスが心配そうに小声で尋ねてきた。


「隊長……大丈夫ですか? 顔色が優れませんが」


 カイは、その声に少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。この銀縁眼鏡の魔術師は、皮肉屋で高慢だが、こうして気にかけてくれる。


「……ああ。少し、考え事を」


 嘘だった。何も考えていなかった。ただ、ルキウスがわざわざ声をかけてきたことが、妙にありがたかった。


 苦行が終わり、貴賓用の宿舎へ戻る。


 扉を閉めた途端、堰を切ったように長い息が漏れた。


「……終わった」


 肩が落ちる。背筋が緩む。今日一日、ずっと張り詰めていた何かが、ようやく解ける。


 西日が部屋の塵を金色にきらめかせていた。天蓋付きのベッド、上質な絨毯。黙っていても運ばれてくる温かい食事。かつての自分がひと月かけても稼げない金が、話を聞いているだけで懐に入る。


 カイは、部屋の中央で立ち止まった。


 ふと、自分の手を見る。


 行商人だった頃、この手はいつも荒れていた。重い荷を担ぎ、凍える夜をしのぎ、時には泥水をすすった。今はどうだ。温かい茶が出され、柔らかな寝台が用意される。


 首を傾げる。一拍。


 ……まあ、悪くない。


 小さく息を吐き、壁に立てかけてあった愛用の武具へと歩み寄った。上着を脱ぎ捨て、腰の短剣『星影』を抜き、柔らかい布で曇りを拭う。次に、ヴォーラの素材から作られた長刀『古橄欖』を手に取った。


 ずしりとした重みが、腕に馴染む。油を染ませた鹿革で刀身を滑らせると、鋼と革の擦れる微かな音が耳に届く。手入れ油の無骨な匂いが、鼻をくすぐった。


 これだ。


 会議室の息苦しさが、少しずつ薄れていく。この感触が、この匂いが、カイを「自分」へと引き戻していく。


 肩の上で、プリルが半透明の体をもぞもぞと動かした。老学者のしゃがれた声を真似て言う。


『……故に! 兵站線の維持コストを鑑みれば、えー、穀物関税の段階的引き上げは不可避かと愚考いたします!』


「やめろ。思い出すだけで頭が痛くなる」


 カイは苦笑した。この生き物は、いつも余計なことを覚えている。


 そんな折、部屋の扉が控えめにノックされた。


「カイ様。お手紙が届いております」


 衛兵の声だった。カイが扉を開けると、若い衛兵が恭しく、一通の封書を差し出した。その丁寧な態度に、カイはまだどこか慣れないものを感じる。


 礼を言って手紙を受け取り、封を切ると、ふわりと、甘いジャスミンの香りがした。


『私の英雄様へ


 エステ砦でのめざましいご活躍、このカーラの耳にも届いておりますわ。

 街の誰もがあなたの新しい武勇伝を語り草にしております。まずは心よりお祝い申し上げます。


 私は王都に拠点を移して、商売もようやく軌道に乗ったところです。ただ先日、悪い貴族に目をつけられてしまったみたいで、私の身も危ういかもしれません。


 詳しいことを、お会いしてお話ししたいと思っています。

 お願い、カイくん。あなたの力を貸して。


 あなたのカーラより』


 カイは手紙を畳み、一度、手の中で握りしめた。


 カーラ・ロッシ。テッラローザで出会った情報屋。圧倒的な美貌と、底の見えない笑顔。あの夜のことが、ふと脳裏をよぎる。


 ……行くべきか。


 視線が宙を彷徨う。一瞬の躊躇。


 だが、「私の身も危ういかもしれない」という一文が、目に焼きついて離れなかった。


 手入れの途中だった長刀を鞘に納め、立ち上がる。上着に袖を通しながら、扉へ向かう。


 足取りに、迷いはなかった。

しばらく忙しいため、週1-2回の更新になるかと思います。

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