第16話 報告
宰相官邸の執務室は、磨き上げられた床が窓からの陽光を鈍く反射し、張り詰めた静寂に満たされていた。開け放たれた窓から吹き込む風は、夏の湿気をすっかり洗い流し、乾いて澄み切った秋の気配を運んでいた。
部屋の主、宰相リカルド・ファビアンは執務机に広げられた報告書の山に、感情の起伏を感じさせない灰色の瞳を落としている。
控えめなノックの音。リカルドはペンを止めない。
「入れ」
短く、重い声が静寂を裂いた。入室したのは、彼の腹心である側近のグイドだった。グイドは、主君の集中力を乱さぬよう、靴音を殺して歩み寄り、恭しく一枚の羊皮紙を差し出した。まだ旅の埃とインクの生々しい匂いが残っている。エステ砦からの伝令だ。
沈黙が流れる。
グイドは主君の横顔を窺った。リカルドの視線が、羊皮紙の上を滑っていく。一行、また一行。その灰色の瞳は、何も映していないかのように動かない。
やがて、リカルドが口を開いた。
「……『共振破城槌』を、単身で破壊。その後、敵本陣に突撃。それに呼応した兵士たちの反撃により、砦の包囲を完全に解除』……か」
報告書を机に置く。とん、と乾いた音が響いた。
グイドの喉が、小さく動いた。
「……閣下」
声が、わずかに上擦っている。
「正直に申し上げます。私も……閣下が彼をあれほど厚遇されるのを見て、内心では首を傾げておりました。ですが、これは……」
言葉が途切れた。グイドは一度、深く息を吸った。
「……まさか、これほどとは」
リカルドは椅子から立ち上がると、窓辺へと歩を進めた。窓の外には、アルニオ川の輝きを抱く王都ルステラの壮麗な景色が広がっている。
「ふん」
彼は窓枠に手をかけた。
「私はヴォーラ出現の報告を聞いたとき、この国は終わると本気で覚悟したものだ。他国の侵略でも、腐敗による自壊でもなく——龍という、抗いようのない災害でな」
視線が、遠くへ向けられる。
「……人が、成龍を討伐するということの意味を、貴族どももようやく理解しただろう」
彼は再び報告書に目を落とす。その視線は、戦闘記録ではなく、報告の末尾に記された兵士たちの動向に関する記述に注がれていた。
「だが……思いの外、人望があるのは、いいのか悪いのか。実に、難しいな」
リカルドは指で顎を撫でた
グイドは、主君の意図を探るように言葉を継いだ。
「は。兵たちの間では、彼はもはや神格化されつつあるようです。言葉を発せずとも、その背中が全てを語る、と。もはや狂信の域にございます」
「狂信か……」
「一方で、一部の守旧派貴族たちは、その得体の知れない力と、民衆からの熱狂的な支持を危険視し始めております……」
「だろうな」
リカルドは短く応じた。
「尖すぎる刃は、時に持ち主の手をも斬る。私も気をつけなければな」
リカルドの指が、報告書を無意識のうちに強く握りしめる。羊皮紙がくしゃりと音を立てた。だが、次の瞬間にはその力は緩み、彼は何事もなかったかのように指を広げた。
「……グイド」
彼は側近に向き直った。静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げる。
「カイ隊長を王都へ召還しろ。辺境の小競り合いで使い潰すには惜しい。それに、うるさい虫が付き始めるのも厄介だ」
「はっ。して、王都での任務は……」
リカルドは、わずかに間を置いた。
窓の外を見る。また、報告書に視線を落とす。そして、グイドへ。
「そう酷使するものでもない。多少は教育もせねばなるまいし、しばらくは休ませてよいだろう」
彼は椅子に腰を下ろした。
「その後は……そうだな。王宮の奥ならば、あの愚かな貴族どもも容易には手が出せまい」
その言葉は、表向きには英雄への配慮に聞こえた。だがグイドは、その裏にある冷徹な計算を感じ取らずにはいられなかった。
グイドの眉が、かすかに動いた。
「……閣下。それは、彼の保護のため、ですかな? それとも……」
リカルドは答えなかった。ただ、薄い笑みを浮かべる。
「グイド、王女殿下の最近のご様子は聞いているな? 例の祝福の負荷で、ひどく心を消耗なされている。あの男は宮中の空気に毒されておらんし……そばに置くには良いかもしれん」
グイドはそれ以上何も問わず、深く一礼して執務室を退出した。
再び一人になった部屋で、リカルドは壁に掛けられた巨大な地図の前へと歩を進める。
龍脈を示す光る線が、大陸全土に張り巡らされている。
英雄の凱旋も、貴族たちの策謀も——今の彼にとっては、些事だった。彼の視線は、地図の一点に注がれている。
「……英雄一人で国は動かせん」
独り言が、静寂に満ちた執務室に低く響いた。
「肝心の動力が足りないのだ。常識的な手段では、この渇きは癒せない」
彼の指が、地図上の「龍脈」の線をなぞった。
「もっと……もっと、根源的な解決策が必要だ」
窓の外では、遠く、英雄の帰還を待ちわびる王都の喧騒が続いている。だがリカルドの灰色の瞳は、その喧騒ではなく——地図の、まだ誰も知らない一点を見つめていた。




