第15話 龍の背中
夜の闇は、血と鉄と、そして絶望の匂いで満ちていた。
エステ砦の司令室はその本来の機能を失い、野戦病院と化していた。床には藁が敷き詰められているが、そこかしこに滲んだ血が黒い染みを作り、むせ返るような鉄臭さを放っている。衛生兵がすり潰す薬草の青臭さも、膿と排泄物の腐臭を誤魔化すには至らない。
司令官であるアウグストは、その地獄から逃れるように城壁の上へ続く石段を登っていた。齢五十を過ぎた肉体には、一段一段が鉛のように重い。
城壁の上は、晩夏の暖かい夜風が吹き抜けていた。眼下に広がる平原には、敵軍が焚く無数の篝火が、まるで死者の魂のように揺らめいている。
ズゥゥゥン……。
心臓を直接、巨大な拳で殴りつけられるような、鈍く、腹の底に響く重低音。カドゥーカ王国の新型攻城兵器、『共振破城槌』が城壁を打つ音だ。
アウグストの視線の先、城壁の最前線で、黒鉄の装甲を纏った一団が人間離れした動きで敵兵を薙ぎ払っていた。宰相リカルド閣下が、絶望的な戦場に唯一送り込んできた「希望」――最精鋭の特殊部隊『律動機兵』だった。
疲労を知らぬかのように統率された動きで敵陣の隙間を縫い、一人が黒鉄の盾を構えて突撃すれば、即座に二人、三人と連携して敵の陣形を切り崩す。指令系統こそ違うものの、彼らの獅子奮迅の働きがなければ、この砦はとうの昔に陥落していただろう。
だが——その希望は、次の瞬間に打ち砕かれる。
数人の律動機兵が、果敢にも破城槌への突撃路を切り開こうと試みた。しかし、破城槌の周囲は、敵軍の精鋭部隊が蟻のように群がって守りを固めていた。黒光りする分厚い鋼鉄の鎧を纏い、巨大な戦斧を構えた屈強な兵士たち。彼らこそ、あの破城槌の運用を任された敵の中核戦力だ。
律動機兵たちは、その鉄壁の守りを、命を削りながらこじ開ける。仲間の一人が犠牲になる間に、もう一人が敵の喉を掻き切り、ついに一人の機兵が破城槌の巨体へと肉薄した。
キィィン!
甲高い金属音が夜空に響く。律動機兵が渾身の力で振り抜いた剣が、破城槌の分厚い装甲に叩きつけられた。しかし、飛び散ったのは激しい火花だけ。大陸でも最高硬度を誇る魔鋼鉄で作られたであろう装甲は、浅い傷が一つ付くのみで、その攻撃を嘲笑うかのように弾き返した。
その一瞬の隙を見逃すほど、周囲の精鋭は甘くない。攻撃が弾かれた直後、機兵の脇腹に巨大な戦斧がめり込み、黒鉄の装甲が悲鳴を上げてひしゃげた。仲間を庇おうとした別の機兵ごと、無慈悲な一撃が二人を吹き飛ばす。
そして、槌が振り下ろされた。狙いは城壁。だが、その余波だけで十分だった。
ズゥゥン……!
大地が悲鳴を上げ、凄まじい衝撃が周囲の空間を歪ませる。吹き飛ばされた律動機兵たちが、まるで子供が玩具を投げ捨てるかのように軽々と宙を舞った。歪んだ黒鉄の装甲ごと大地に叩きつけられ、起き上がることはなかった。
「またか……」
アウグストの隣に立つ副官が、死人のような声で呟く。城壁がまた一つ、巨大な獣に喰いちぎられたかのように崩落する。舞い上がった粉塵が、月光を鈍く遮った。
王国中枢からの伝令は、三日前に途絶えた。
アウグストは無意識に、腰の剣の柄を握りしめていた。指が白くなるほど強く。それでも、震えは止まらない。
彼らは見捨てられたのだ。この国に。
アウグストも、副官も、この部隊の兵士たちも、皆が何年も最前線で戦い続けた、王国でも指折りの戦士だった。だからこそ、絶望的な状況で数ヶ月もの間、奇跡的に持ち堪えてきた。そんな自分達も、宰相閣下が遣わされた新兵器も、あの悪夢には届かない。その事実が、兵士たちの、そしてアウグスト自身の心を、決定的に折っていた。
脳裏を、一人の若者の顔がよぎった。数年前、別の戦場で——同じように絶望的な状況で——「父上、先陣を」と笑った息子。その笑顔は、二度と戻らなかった。
ここにいる兵士たちは皆、あの時の息子と同じくらいの歳だ。
アウグストの視線が、城壁の上で傷だらけになりながら戦う若い兵士たちを捉えた。彼らを犬死にさせることだけは——司令官として、そして一人の父親として——許容できることではなかった。
敵が降伏を受け入れるとは思えない。だが、何もしなければ夜明けを待たずに城壁は砕かれ、全員が鏖殺されるだけだ。
アウグストは、隣に立つ副官ルドルフの方へ、ゆっくりと顔を向けた。
「ルドルフ……降伏の、使者を……」
その言葉が、完全に彼の口から紡がれることはなかった。
どこからともなく、声が響いたのだ。まるで、すぐ耳元で風が囁いたかのような、明瞭で、しかし実体のない声だった。
『こちら、宰相リカルド閣下直属、特務分隊所属ルキウス・クローデル』
副官と顔を見合わせる。その目にも、信じがたいといった色の驚愕が浮かんでいた。間違いない。これは、自軍の風魔術師が使用する通信魔法『風密管』だ。
『東の区画で陽動を行う。我々は極少人数だが、隊長はロッカの英雄、“龍殺し”だ。多少の混乱は望めるだろう。その隙に西門から、動ける者だけでも脱出されたし』
宰相閣下は、我々を見捨ててはいなかった。
絶望で凍てついていた心の底に、小さな熾火が灯る。若者たちを一人でも多く生きて故郷へ帰す。そんな司令官として最後の使命を果たすチャンスが、まだ残されていた。
「龍殺し、だと……?おとぎ話も大概に……」
副官が懐疑的な声を漏らす。無理もない。個人で成龍に勝てる可能性がわずかでもある者など、大陸全土を探してもベルクト卿くらいだろう。
「黙れッ!」
それでも、アウグストは吼えた。
「宰相閣下がお遣わしくださった最後の希望だぞ!」
アウグストは身を翻し、城壁を駆け下りながら、残る力を振り絞って叫んだ。
「伝令! 西門の守備隊長を呼べ! 動ける兵を全員集めろ! 今すぐだ!」
「聞け! 貴様ら! 王都から救援が来たぞ! 宰相閣下は我々をお見捨てにはならなかった! 先遣隊の隊長は、あのロッカで国を護った英雄、"龍殺し"ご本人だ!」
半信半疑ながらも、兵士たちの虚ろな目に、わずかな光が戻る。それで十分だった。今は、死ぬための覚悟ではなく、生きるための熱が必要なのだ。
約束の時刻。東の夜空が、まるで夜明けが訪れたかのように真紅に染まった。テッサの放った炎が、敵陣の一角を鮮やかに焼き払っている。
陽動は、始まった。
敵も、こちらが追い詰められていることは承知している。下手に動けば、陽動だと見抜かれ、西門に戦力を集中させかねない。アウグストは、敵陣の混乱が最高潮に達する、その一瞬を待った。双眼鏡を覗き、息を殺して戦況を見つめる。
だが、様子がおかしい。
敵の混乱は、陽動が行われている東ではなく、まるで別の場所で発生していた。怒号と悲鳴が、風に乗って微かに聞こえてくる。双眼鏡のレンズをそちらへ向ける。
そこに、信じられない光景が広がっていた。
たった一つの人影が、敵陣のただ中を進んでいた。
散歩——いや、違う。その足取りには一切の迷いがなかった。まるで、進むべき道が最初から見えているかのように。最短距離を、最小限の動きで、ただ真っ直ぐに。
無数の矢が放たれた。魔法の火球が殺到した。
しかし、その悉くが届かない。
矢は弾かれ、魔法は影が纏う漆黒の鎧に触れた瞬間、光の粒子となって吸い込まれていく。
敵兵が恐怖に駆られて斬りかかる。だが、影が手にした長刀が一閃するたび——ただの一閃で——赤黒い飛沫を上げて吹き飛んだ。
二人目。三人目。四人目。
影の進路を塞ごうとした者は、例外なく倒れた。防御の構えを取る暇すら与えられない。剣を振り上げた瞬間には、既に胴を両断されている。まるで、相手がどう動くか、どこが隙になるか、全てが最初からわかっているかのような——。
『――隊長はロッカの英雄、龍殺しだ』
ルキウスの言葉が、脳内で雷鳴のように反響した。まさか。あれが。
人影は、ついに『共振破城槌』の眼前にたどり着いた。アウグストの脳裏に、先ほど見た光景が鮮明にフラッシュバックする。我が軍最強の律動機兵たちが束になって挑み、その渾身の一撃が甲高い音を立てて弾き返された、あの絶望的な光景が。
あの装甲は、人の力では砕けない。
そう思った、瞬間だった。
双眼鏡のレンズの中で、影の剣の周囲の月光が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。
音は、なかった。
漆黒の長剣は、まるで熱したナイフがバターを溶かすように——何の抵抗もなく——滑らかに、装甲の中へと滑り込んでいった。
戦場を支配していた、心臓を苛むような重低音が、ふっ、と消えた。
何が起きたのか、誰にも分からなかった。
アウグストも、副官も、城壁の上の兵士たちも、そして眼下の敵兵さえも、全ての動きが止まった。誰もがその瞬間、ただ一点——巨大な破城槌へと視線を注いでいた。
月明かりの下、鋼鉄の悪夢が、気を失った巨人のように、ゆっくりと膝から崩れ落ちていく。
鈍い金属音を立てて大地に沈黙し、二度と動くことはなかった。
そして、その残骸の上に立つ、たった一つの人影を——そこにいる誰もが見た。
敵陣が、完全な恐慌状態に陥るのが、遠目にもはっきりと分かった。統制は失われ、兵士たちは武器を捨てて逃げ惑い始めている。
アウグストは、目の前の光景が信じられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。副官が隣でへたり込み、神に祈るように何かを呟いている。
"龍殺し"
その言葉が、我に返ったアウグストの脳を焼いた。
絶望。安堵。驚愕。
そして、それら全てを飲み込む興奮。
長年の軍歴で酷使し、枯れ果てたはずの喉から、血の味がするほどの絶叫がほとばしった。
「開門ッ! 城門を開けぇぇぇぇッ!」
振り向いた彼の形相は、もはや鬼神のそれだった。
「あれは宰相閣下がお遣わしになった、我が軍の英雄だ! "龍殺し"に続けぇぇぇぇッ!」
その叫びが、引き金だった。
砦中に絶望と共に淀んでいた空気が、爆発的な熱狂へと変わる。虚ろだった兵士たちの目に狂気の光が宿り、理性をかなぐり捨てた獣のような雄叫びを上げた。
開かれた城門から、彼らは雪崩のように飛び出していく。
その誰もが、戦場に舞い降りた龍の背中を見つめていた。




