第5話 ベルクトの過去
カイの小さな頷きを見ると、カーラは「話をするには、少し場所を変えましょうか」と、彼の手を取って立ち上がった。
導かれるままに通されたのは、先ほどのサロンの奥にある、より私的で親密な雰囲気の小部屋だった。
通されたのは、サロンの奥にある小部屋だった。
厚いベルベットのカーテンが窓を閉ざし、外界の光を完全に遮断している。光源は卓上のオイルランプが一つだけ。揺らめく炎が、部屋の隅々に濃密な影を落としていた。
部屋の温度が、先ほどよりもわずかに高い気がした。それがカイの緊張をさらに増幅させた。
カーラはカイをベッドの横の長椅子に座らせ、自分も隣に腰を下ろす。そして、まるで面白いゴシップでも話すように、軽やかな、しかしどこか背徳的な響きを帯びた声で語り始めた。
「ベルクト・ファロス。かつてはアウレリア王国最高の賢者と称えられ、王宮で王族の教育にも携わっていたほどの高位魔術師。特に魂魄魔法の領域においては、有史以来、彼に比肩した者はいないとまで謳われたわ」
その声には、恐怖や非難の色合いは薄く、むしろ英雄譚でも語るような興奮と、僅かな憧れすら感じられた。
「でも実態は、世界の根源たる『律動』、特に生命と魂の神秘に取り憑かれた狂気の探求者だった。『魂の融合』を研究テーマにしていた彼は、実験のために何千人もの囚人を家畜のように犠牲にしたの。その中には無実の罪で捕まった政治犯やその子どももいたそうよ。」
何千人。
カイの手が、無意識に膝の上で握りしめられた。野盗が襲撃してきた時の、ベルクトの氷のような目が脳裏をよぎる。あの穏やかな老人が、指を振るだけで五人の命を奪った光景。
みるみる青ざめていくカイを、カーラは楽しそうに見つめている。
「王国の貴族たちがベルクト様の非道さを訴えた時、彼を重用してた王様は、自分に火の粉が飛んでくるのを恐れてあっさり切り捨てたの。それまで囚人の利用を黙認していた王様自身が、誰よりも声高にベルクト様の非道を糾弾し、口封じのために刺客……アウレリア王国が誇る精鋭中の精鋭である騎士団を、まるごと一つ、彼の邸宅へと差し向けたわ」
カーラの声のトーンが、次第に低く、秘め事を打ち明けるかのように真剣味を帯びていく。
「でも、結果はどうなったと思う?」
カイは何も答えられなかった。喉が渇いている。ただ、カーラの次の言葉を待つしかなかった。
「騎士団は“全滅”よ。全員、ベルクト様の邸宅の庭で、まるで眠っているみたいに穏やかな顔で見つかったんですって。何人かは、そのまま二度と目を覚まさなかったそうよ」
眠るように穏やかな顔。カイは、森で見た野盗たちの死に顔を思い出し、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……生き残った人も、いたのか……?」
震える声で、どうにかそれだけを絞り出した。
カーラが目を細める。意地の悪い笑みが、その唇に浮かんだ。
「いい質問ね。ええ、いたわ。何人かはね」
彼女は長い脚を組み替える。衣擦れの音が、静かな部屋にざらりと響いた。
「でもね、本当に地獄を見たのは、生き残ってしまった彼らの方だったのよ」
暖炉の薪が、パチリと爆ぜた。カイの肩がびくりと跳ねる。
「彼らは目を覚ました後、気がついたら身体が“水”を猛毒だって認識するようになっちゃったの。一口でも飲めば喉が焼けつくように腫れ上がって、息もできなくなる」
彼女は遠い目をして続けた。
「水を口にできない彼らは数日のうちに干からびて、皺だらけの老人のようになりながら、最後は渇きに耐えきれず水を求める。すると今度は呼吸が出来なくなり、陸の上で溺れ死ぬようにして……それはもう、見るもおぞましい最期だったそうよ。まさしく魂魄魔法の極致。王国もこれ以上の犠牲は出せないと、ついに彼を『厄災』として放置することを選んだのよ」
それは、単なる殺戮よりも遥かに陰湿で、残虐な仕打ちだった。
カイの胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。唾を飲み込もうとして、喉が詰まった。魂に直接作用するという魂魄魔法——その言葉が、今になって生々しい実感を伴って迫ってくる。
あの老人は、自分の隣で眠っていた。自分は、あの老人の食事を作り、世話を焼いていた。
カイの声は、もう震えを隠せなかった。
「カーラは……そんなベルクトが、怖くないのか……? なんで声をかけたんだ……?」
ベルクトの恐ろしさを理解した上で、平然とした態度で関わろうとするカーラが、カイにはどうしても理解できなかった。
カーラは一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐにいつもの悪戯っぽい、しかしどこか影のある笑みを浮かべた。
「怖いかって? もちろん怖いわよ、カイくん。でもね、このテッラローザで、私みたいな女が“普通に”生きていけると思う?」
彼女の視線が、ふと鋭くなる。 そこには、娼婦としての仮面の下にある、冷ややかな諦観があった。
「私を本気で殺そうと思ったら、ベルクト様みたいな特別な魔法なんて必要ないの。嫉妬深いお得意様の奥方に毒を盛られるかもしれないし、入れ込んだお客様に路地裏で刺されるかもしれない。昨夜一緒に寝た男性が、今朝には私の首を絞めていることだってあり得るわ」
淡々とした言葉だった。まるで明日の天気を語るような口調で、彼女は自身の死を語る。
「どうせ常に命懸けなら、リターンの大きい大物を狙った方がマシじゃない? それに……」
カーラは顔を上げ、ニカっと笑った。
それは、都会の中でたくましく生きる野良猫のような、ふてぶてしくも鮮烈な笑顔だった。
「死ぬときくらい、退屈じゃない方がいいもの」
カイは、何も言えなかった。
目の前の女性は、自分とは全く違う世界で、全く違う価値観で生きている。その事実だけが、妙にはっきりと頭に残った。理解できない。共感もできない。なのに、目が離せなかった。
部屋に満ちるワインと香水の香りが、語られた話の不気味さと相まって、どこか現実味を奪っていく。
カーラの手が、カイの肩に触れた。
「怖がらせちゃったかしら?」
気遣うような素振り。だが、その蜂蜜色の瞳は笑っていなかった。
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