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第4話 甘い毒

 テッラローザの夜。磨き上げられたマホガニーのテーブルには、飲み残されたワインのグラスが数脚、ルビーのような赤い液体を揺らめかせている。


 ビロード張りの長椅子は、座る者の体重を柔らかく受け止める。部屋の隅では暖炉の火がパチパチと控えめな音を立て、揺れる炎が壁に掛けられた異国風の精緻なタペストリーに不規則な影を落としていた。


 高級な香油と、カーラ・ロッシが纏うジャスミンの甘い香りがふわりと漂ってくる。


 「満腹になったし、少し疲れた。先に休ませてもらうかの」


 食事と、思いがけない呪いのネックレス鑑定騒動が一段落し、やや時間が経過した頃。先ほどまでの鑑定騒ぎが嘘のように、ベルクトは満足げに腹をさすりながら立ち上がった。


 その言葉に、カーラは待っていましたとばかりに優雅な笑みを浮かべる。


「ええ、ベルクト様。奥に快適なお部屋をご用意させておりますわ。プリルちゃんも、こちらへどうぞ」


「おやすみー!」


 プリルはカーラの言葉に嬉しそうに跳ねると、ベルクトの外套の裾にまとわりつき、二人は部屋の奥へと消えていった。


 重厚な扉が、まるで舞台の幕が下りるかのように静かに閉まり、カイはカーラと二人きりでこの密室に取り残された。


 静寂が、首筋にまとわりつく。


 暖炉の炎がぱちり、と小さな音を立てて爆ぜた。それがやけに大きく聞こえる。


「さて、と」


 カーラがカイに向き直った。その蜂蜜色の瞳が、暖炉の光を映して妖しくきらめく。


 彼女はカイが座る長椅子の、すぐ隣に腰を下ろした。


 ビロードが軋む音。ふわりと、先ほどよりも濃厚なジャスミンの香りがカイの鼻腔をくすぐる。

 

 肩が触れ合うか、触れ合わないかの距離。


 カイは無意識に身を固くした。行商人としてのくたびれた麻の服が、この豪奢な空間ではあまりに場違いで、まるで借り物の皮膚のように落ち着かない。


 握りしめた拳には、じっとりと汗が滲んでいた。


 カイの手が、無意識に腰へ伸びた。


 指先が触れたのは、使い古した鉄の短剣。革巻きの柄は手垢で黒ずみ、あちこちが擦り切れている。


 絹と宝石に囲まれた部屋の中で、それだけがひどく浮いていた。


「……随分と、年季が入った相棒ね」


 カーラの視線が、カイの腰元に向けられていた。その蜂蜜色の瞳が、可笑しそうに細められる。


「もっとマシなのはないの? 護衛をするには、ちょっと頼りないんじゃない?」


「……これしか、持ってないんで」


 カイは咄嗟に外套の裾を引き、短剣を隠した。


 耳が熱い。安酒場で買った中古品。刃こぼれだらけの、ガラクタ同然の一振り。


「ふうん。……もったいないわね」


 カーラは小さく呟いて、視線を戻した。その唇の端が、かすかに持ち上がっている。


「それにしても不思議だわ、カイくん」


 カーラの声は、羽毛で耳朶を撫でられるような、甘く柔らかな響きを持っていた。


「あなた、あのベルクト様にずいぶん物怖じしないのね。まるで……長年連れ添った従者のようにも見えるし、時には対等な友人同士のようにも……一体どういうご関係なのかしら?」


 蜂蜜色の瞳が、カイの顔をじっと探る。それは純粋な好奇心を装いながら、獲物の急所を品定めするような、鋭い光を帯びていた。


 カイの視線は、テーブルの上のワイングラスと、己の汚れた指先との間を、寄る辺なくさまよう。


「べ、ベルクトの知り合いなのか? 俺は……偶然、旅を一緒にしてるだけで……」


 声が、自分のものではないように上擦った。


 カーラは、その答えを聞いてくすくすと喉を鳴らした。その笑い声は、まるで小さな銀の鈴が転がるようだ


「知らないで一緒にいるの? ふふ、カイくん、あなた本当に面白いわ。彼はね、アウレリア王国ではちょっとした有名人なのよ」


 彼女は一度言葉を切り、カイをじっと覗き込んだ。その蜂蜜色の瞳に捕らえられた蝶のように、カイは身動きが取れなくなる。


「最高の賢者にして、最も危険な禁忌を犯した王国の敵。……私の知っている“お話”、もっと聞きたい?」


 王国の敵。


 その言葉に、カイの呼吸が止まった。


 野盗たちを眠るように殺した、あの静かで無機質な光景が脳裏に蘇る。


 ベルクトが、ただの風変わりな老人ではないことは分かっていた。だが、王国の敵、とまで言われるほどの存在だとは。


 カイは、ただ黙って頷いた。喉が渇き、声が出ない。身体が勝手に前のめりになっていた。


 カーラは、カイのその反応を見て口角を上げた。小鳥が罠にかかったのを確認した狩人の、確信に満ちた笑みだ。


「そうね…、情報はタダじゃないの、カイくん。私、こう見えても情報屋のはしくれなのよ」


 彼女は優雅な指先でワイングラスを傾け、その赤い液体を揺らしながら言った。


「でも……カイくんには呪いのネックレスの件で大きな貸りができたし。それに、あなたみたいな純粋で、それでいてどこか底知れないものを持っている子、結構タイプなの」


 カーラの指先が、カイの腕に、そっと触れた。


 その柔らかな感触と、肌を通して伝わる微かな熱。カイの心臓は大きく跳ねた。


「だから、もしカイくんが、“今晩私と仲良く遊んでくれる”なら、私の知っているベルクト様の恐ろしい秘密、洗いざらい教えてあげてもいいわよ?」


 甘い、毒の囁きだった。


 カイは、その言葉の意味を理解するのに、数瞬を要した。そして理解した瞬間、一気に熱が顔へ集まった。耳の奥がドクドクと鳴る。


 自分のような何の値打ちもない行商人が、この宝石のような女性に求められている。


 その事実に対する羞恥と、信じがたい思いが、胃のあたりを重く締め付けた。同時に、拒絶できないほどの圧倒的な魅力が、思考を白く塗りつぶしていく。


 カーラの指先が、カイの頬をなぞった。熱を帯びた、吸い付くような肌の感触。


「私と…"仲良く"してくれる?」


 蜂蜜色の瞳が、カイの唇を見つめている。その瞳の奥に、計算された打算が潜んでいることは、漠然と感じていた。しかし、ベルクトを知りたいという切実な好奇心と、カーラの巧みな誘い、そして、自分を認めてくれる誰かの温もりを求めてしまう孤独が、カイの理性を甘く溶かしていく。


 喉が塞がり、声が出ない。


 彼はカーラの視線から逃げるように深く俯いた。


 長い数秒。


 やがて、カイは小さく、消え入りそうな動作で、ただ一度だけ頷いた。


 カーラの吐息が、すぐ耳元で熱を帯びた。


「いい子ね……」


 揺らめく暖炉の炎が、重なり合う二人の影を、一つの暗い染みへと溶かしていった。


挿絵(By みてみん)

誤字脱字の報告、ありがとうございます!

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