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第9話 初めの指令

 数日後、カイは再び宰相執務室の重い扉の前に立っていた。


 前回と同じ、感情の読めない侍従に導かれ、音もなく開かれた扉の先には、張り詰めた静寂だけが満ちていた。窓の外では、初夏の強い日差しが王都の白い街並みをきらきらと輝かせているというのに、この部屋だけは深海のように光が淀み、空気が重かった。


 部屋の中央には宰相リカルド・ファビアンが立っていた。彼の視線の先にあるのは、机を覆う巨大な軍事地図。大陸の東側、アウレリア王国と北方のカドゥーカ王国との国境地帯が、精密な線で描き出されている。


 地図の上には精巧な木製の駒が置かれ、国境線の近くにはまるで血で塗りつぶしたかのように、乱暴な黒い×印がいくつも付けられていた。


「さて、カイ隊長。先日、君との契約の際に話した件だが、状況が動いた。いや、正確には、私が動かしたと言うべきか」


 彼はカイを手招きし、地図の前へと促す。その灰色の瞳は、値踏みするようにカイの反応を窺っていた。


「覚えているかな。国境のエステ砦が、敵の新型攻城兵器によって苦境に立たされている、という話を」


「……ああ」


「この砦が、今、落ちる寸前だ」


 リカルドは顎で地図を示した。


「今はまだ試験運用なのだろうが、それでも城壁は容易く崩壊したようだ。兵士たちの士気は地に落ちている。報告によれば、もはや組織的な抵抗は不可能。それを受けて、王宮の愚か者どもは、砦の放棄を決定した」


 淡々とした、事実だけを告げる声。だが、その言葉の端々には、抑えきれない苛立ちと侮蔑が滲んでいた。


 カイは黙って、彼の次の言葉を待った。この男が自分を呼び出した理由は一つしかない。そして、それは決して心地よいものではないだろう。


「だが、私はこの決定を覆す。砦を見捨てることは、国境全体の崩壊に繋がる。そして何より……」


 彼は静かに続けた。


「砦にはまだ、八百の兵士が残っている」


 その言葉が、カイの鼓膜を鈍く揺さぶった。


 八百。


 リカルドは、カイの微かな動揺を見透かしたように、机の上に一枚の羊皮紙を滑らせた。それは、お世辞にも上手いとは言えない、しかし必死さが伝わってくる、奇妙な兵器のスケッチだった。巨大な鉄の塊に、車輪と、先端に巨大な槌のようなものがついている。


「問題は、この鉄の塊だ。兵士からの報告では、『共振破城槌(レゾナンス・ラム)』と呼ばれているらしい。堅牢なはずの城壁を紙のように貫く。これが、兵士たちの心を折った元凶だ」


 リカルドは、まるで憎々しげに、スケッチを指で強く叩いた。


「私も手の空いている部隊を援軍として送ったが、戦況は変わらん。次を送っても、到着するまで砦が保たないだろう」


 彼は、カイが口を開くのを待たない。それは、戦略や戦術を問うような、回りくどいものではなかった。ただ、絶対的な結果だけを求める、シンプルで、それゆえに残酷な打診だった。


「エステ砦に向かい、この兵器を、破壊しろ」


 部屋に再び沈黙が落ちる。カイはリカルドの灰色の瞳を、ただじっと見返した。なぜ、俺なのか。そんな分かりきった問いが喉まで出かかって、消えた。この男は、カイの能力も、経歴も、そしてその内面さえも、ある程度は見抜いている。


 案の定、リカルドは挑戦的に口の端を吊り上げ、指を一本立てる。


「君が行く理由は三つある。第一に、既存の戦力では不可能だからだ。すでに証明されている」


 そして、二本目の指が立てられる。


「第二に、絶望した兵士たちには、“龍殺し”という、分かりやすい希望の象徴が必要だからだ。君がそこに現れるだけで、彼らの士気は回復するだろう。君は、そういう存在になった」


「そして第三に……」


 彼の声が、わずかに愉悦の色を帯びた。


「君の特務分隊長就任とその待遇を快く思わない、頭の固い貴族どもが大勢いる。彼らに、君の実力と“価値”を、誰の目にも明らかな形で認めさせる必要がある。これは君にとっての初陣であり、私の政治闘争でもあるのだ。」


 カイ自身はそれほど今の地位に固執したいと思っていなかったが、それ以上に、カイの心を捉えて離さない言葉があった。


 ――砦にはまだ、八百の兵士が残っている。


 見捨てられる、八百の命。


 またか、とカイは思った。腹の底から、冷たい何かがせり上がってくる。


 力を持つ者が、その場の都合で、力のない者を一方的に切り捨てる。その構図は、カイがこれまで嫌というほど見てきたものだった。幾度となく騙され、誰にも相手にされなかった行商人時代。くだらない政争の果てに追放されたベルクト。そしてラスナの血を引くというだけで冷遇されていたレナータ。


 戦う前から負け犬だと決めつけられ、切り捨てられる兵士たち。それは、かつて行商人として誰にも認められなかった、自分自身のように思えた。


 カイは、リカルドの目を真っ直ぐに見返し、静かに、しかしはっきりと頷いた。

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