第8話 王女の侍女
宰相リカルドとの謁見は、カイにとって嵐のような時間だった。
「長旅で疲れただろう。追って担当の者を向かわせる」
そうして通された待合室は、先ほどの執務室とは打って変わって、柔らかな陽光が差し込む居心地の良い客間だった。深く沈み込むようなソファが置かれ、テーブルの上には焼き菓子の載った銀の皿まで用意されている。
カイは革張りのソファに腰を下ろした。体が不自然なほど深く沈み込む。背中を預けていいものか迷い、結局、浅く座り直して膝に手を置いた。視線が自然と、銀の皿に吸い寄せられる。
蜂蜜色の焼き菓子。表面に砂糖の結晶が光を弾いている。甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
——食べていいのか、これ。
わずかな葛藤。 カイの指先が、一番上のクッキーに触れた、その時だった。
コン、コン、コン。
扉が三度、間を置いて叩かれた。迷いのない、硬質な音。
「……どうぞ」
カイが応じると、音もなく扉が内側へ開く。そこに立っていたのは、一人の侍女だった。
染み一つない、糊の効いた侍女服。その襟元は首筋に沿って寸分の隙もなく閉じられている。くすんだココアブラウンの髪は、一筋の後れ毛すら許さず、後頭部で完璧な円を描くように結い上げられていた。年の頃はカイより一つ二つ下だろうか。華奢な体つきと、まだ幼さの残る輪郭に反して、彼女が纏う空気は氷のように冷たい。
「あなたが、カイ様ですね」
少女の声は、その印象を裏切らない、澄んでいるが温度のない声だった。
「私はロゼッタ・マリーニ。シエナ・アウレリア王女付きの筆頭侍女を務めております」
深紫色の瞳が、カイを値踏みするように見つめる。
「宰相閣下より、西棟の私室までご案内するよう命じられました」
そう告げると、ロゼッタは返事を待たず廊下へ歩み出した。カイは一瞬ためらい、結局、焼き菓子に手を伸ばすことなく、その背を追った。
磨き上げられた大理石の床が、二人の足音だけを冷たく反響させる。
ロゼッタは常にカイの三歩先を、淀みない足取りで進んでいく。その背筋は、定規で引いたように真っ直ぐだった。
「右に見えますのが『翠玉の間』。謁見や小規模な夜会に用いられます」
前を向いたまま、彼女は言葉を紡ぐ。
「現在、財務卿オーデリ家と外務卿バルトリーニ家が、どちらの息のかかった芸術家に新装飾を任せるかで対立中です。みだりに近づけば派閥に属すると見なされます。不用意な接近は避けてください」
カイの眉が、僅かに寄った。装飾で派閥争い。意味がわからない。
「前方より来るのは近衛騎士団第三部隊。隊長は侯爵家の三男で、虚栄心の強い人物です」
ロゼッタの足が、壁際へ逸れる。
「自らの武勇が『龍殺し』の称号に劣ると見られることを、何より恐れています。刺激は賢明ではありません」
「刺激するなって言われても……」
「壁際に寄り、ただご通過なさるのをお待ちください。彼らは、自らが意に介さぬ者を、認識することができませんので」
その言葉通り、騎士たちは二人を背景の一部として扱い、下品な冗談を言い合いながら通り過ぎていった。
カイは黙ってその背を見送った。ここは、自分の知る世界とは違う。
ふと傍らにいるロゼッタに意識が向く。この少女がリカルドの意を汲み、自分を「守ろう」としているようだと気がついた。
長い渡り廊下を抜け、やがて西棟と呼ばれる区域の一室にたどり着く。ロゼッタは慣れた手つきで鍵を取り出し、扉を開けた。
「こちらが、本日より貴殿の私室となります」
やがて、西棟と呼ばれる区域の一室にたどり着く。ロゼッタは慣れた手つきで扉を開けた。
「こちらが本日より貴殿の私室となります」
部屋は、広かった。天井が高い。床には分厚い絨毯が敷かれ、窓際には書き物机、奥には大きな寝台。これまで野営してきた森や、安宿の狭い一室とは比べ物にならない。
カイは部屋の中央で立ち止まった。足の裏が、絨毯の柔らかさに沈む。落ち着かない。どこに立てばいいのかわからない。
そんな戸惑いなど気にも留めず、ロゼッタは向き直ると、カイに鍵を手渡した。
「まずはこちらの鍵を。西棟通用口と、この私室のものです。王宮内において、鍵の紛失は、手続き上、即刻、死罪に値するとお考えください。次に、こちらの巻物。王女殿下を護衛する際の服務規程です。内容は多岐に渡ります。一つ、警護の際は王女殿下の半径五メートル以内に常に待機すること。二つ、王女殿下への不必要な接触および会話は禁止。そして三つ――」
ロゼッタが、立て板に水のごとく規程を読み上げていた、その時だった。
カイの外套のフードから、半透明の物体が、ぷるん、と飛び出した。
プリルだった。
——おい、待て。
カイの手が伸びるより早く、プリルはふわりと宙に浮き、そのままカイの肩に着地する。得意げに、ぷるぷると震えている。
「……」
ロゼッタの言葉が途切れた。 彼女の視線が、カイの肩に釘付けになる。 能面のような無表情に、微かな亀裂が走った。
「……ところで、カイ様」
数秒の沈黙を経て、再起動した彼女の声は低かった。瞳が細められ、鋭い光を宿す。
「貴殿のその…肩から飛び出してきた不定形の生命体は、何ですか。未許可の生物、特に魔道具や使い魔の類を王宮内に持ち込むことは、重大な規律違反に該当しますが」
カイが言い訳を探して口を開くよりも早く、肩の上でプリルが小さく身を震わせた。
次の瞬間――
部屋に響いたのは、凛とした、それでいてどこか憂いを帯びた、若い女性の声だった。
『ロゼッタ……ごめんなさい。やっぱり心配で、様子を見に来てしまったの』
カイの眉が跳ねた。この声は、知らない。
『……あの、カイという方、どうかしら……? 乱暴な人ではない?』
ロゼッタの顔が、凍りついた。深紫色の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「姫様……!?」
叫んだ。氷のような冷静さが、一瞬で砕け散った。
「いけません、私がまず探りを入れてくると、あれほど申し上げたはずです! もし相手が凶暴な男だったらどうなさるおつもりで……!」
自らの忠誠心と、主君のために練ったささやかな計画が、よりにもよってその対象本人に、最悪の形で暴露されたのだ。
一瞬の驚愕。次いで、羞恥。
彼女は深呼吸を一つすると、強引に全ての感情を心の奥底に押し殺した。再び凍てついた表情を作ろうとする。
だが、耳まで真っ赤に染まっているのを隠すことはできない。
ロゼッタは、憎々しげにプリルを睨みつけた。
「……なるほど。高度な音声模倣で混乱を生むための使い魔ですね」
早口だった。
「後ほど宰相閣下に詳細報告と、処分の検討を進言しておきます」
「あ、いや……」
カイが何か言おうとするより早く、ロゼッタは背を向けた。
「ご不明な点はございませんね! では、私はこれで!」
返事を待たず、ロゼッタは早足で部屋を出て行く。そして、乱暴に閉められた扉の音が、がらんとした部屋に響き渡った。
静寂。
カイは息を吐いた。視線が、プリルへ向く。
「……お前な」
言葉が、続かない。プリルは無言で揺れている。反省の色は、微塵もなさそうだった。
そこでカイは考えるのをやめた。疲れていた。
視線が、部屋の隅にある寝台へ向く。柔らかそうだった。今日は、もう寝てしまっていいだろうか。
腹の虫が、小さく鳴いた。
そういえば、さっきの焼き菓子。結局、食べそびれた。
カイは、誰に言うでもなく、小さくため息をついた。




