第6話 宰相の提案
扉が開いた瞬間、分厚い空気が肌にまとわりついた。
執務室は、異常なほど静かだった。
カイが一歩足を踏み出すと、深紅の絨毯がブーツの踵を音もなく飲み込む。壁という壁が天井まで届く書架で埋め尽くされ、革と古紙、それに微かなインクの匂いが漂っていた。
背後の巨大な窓からは、王宮の頂――壮麗なクーポラが見下ろせる。王都ルステラの支配者が誰であるかを、無言で誇示するような光景だった。
「カイ殿、長旅の疲れもあるだろうに、突然呼びつけてすまなかったな。まずは、ゆるりと茶でも飲んでくれ」
声の主リカルド・ファビアンは、玉座のような部屋の主でありながら、驚くほど穏やかな物腰でカイを迎え入れた。カイが返事をする間もなく、彼は自ら執務机の脇に設えられた小卓へ向かい、手慣れた動きで茶器を並べ始める。銀のポットから、琥珀色の液体が純白の磁器へと注がれる。
立ち上る湯気と共に、柑橘とミントを合わせたような清涼感のある香りが漂った。
「まずは、茶でも飲んでくれ。話はそれからだ」
「あ……はい」
カイは促されるまま、革張りの椅子に腰を下ろした。
瞬間、体が沈み込む。 長旅で板張りの荷馬車に揺られ続けてきた尻が、驚いたように微かに跳ねた。あまりに柔らかく、吸い付くような座り心地。カイは居心地悪そうに、座面の上で何度か位置を直した。
リカルドがソーサーを差し出す。立ち上る湯気と共に、柑橘とミントを合わせたような清涼感のある香りが鼻孔をくすぐった。
カイはカップを手に取ると、躊躇いながら口をつける。 温かい液体が食道を落ちていく。美味い。 思わず、ほう、と細い息が漏れた。
「気に入ってもらえたかな」
「……ええ。すごく」
カイは慌てて口元を拭い、居住まいを正した。リカルドは向かいの席に腰掛け、そんなカイの様子を興味深そうに観察している。
「“龍殺し”カイ殿。君がロッカで見せた武勇は、すでに王都中の知るところとなっている」
「はあ……」
カイは視線を逸らし、自分の膝を見た。
武勇。
そう呼ばれるたび、首の裏がむず痒くなる。あれは、ただ必死だっただけだ。そもそもベルクトの魔術があったからで――。
カイが言い訳を探して口を開きかけると、リカルドが片手を上げて制した。
「単刀直入に言おう。私は君を、ただの兵士として使い潰すつもりはない」
リカルドの声が低くなる。
「我が直轄の特務分隊長の任に就いてもらいたい」
「……はい?」
「君の力は、この国が今、最も必要としているものだ」
カイは瞬きをした。
分隊長。国が必要としている。
言葉の意味を咀嚼するのに数秒かかる。
「ベルクト卿の不在は、我が国にとって計り知れない損失だ。これは感傷ではない。隣国カドゥーカ、そして南のモンテネーロ公国とのパワーバランスに関わる、極めて単純な数学の問題でね」
リカルドは組んだ指の上に顎を乗せた。
「あの御仁一人が健在であるという事実だけで、どれほどの侵略の芽が未然に摘み取られていたか。……君には、その穴を埋めてもらいたい」
ベルクトを追放したのは王国のはずだ。
カイの顎が、ほんの僅かに引き締まった。
ゆっくりとカップをソーサーに戻す。カチャリ、という硬質な音が、静寂の中で響いた。
「……お断りします」
リカルドの眉が、わずかに動いた。
「理由は?」
「俺は……」
カイは言い淀み、視線を宙に彷徨わせた。
誰かのために龍と戦ったわけじゃない。それに――。
「俺には、王都で……やりたいことがあるんです」
この部屋の主に対して投げつけるには、あまりに素っ気なく、子供じみた拒絶。
だが、リカルドは怒らなかった。むしろ、その薄い唇の端を、微かに吊り上げたように見えた。
「"やりたいこと"、か。結構」
声には、面白がるような響きが混じっていた。
「だが、その“やりたいこと”を成すための“手段”を、君は持っているのかね?」
彼は立ち上がると、壁を埋める書棚の一つへ歩み寄り、重厚な革で装丁された一冊の分厚いファイルを抜き出した。アウレリア王家の紋章と共に、厳重な封蝋が施されていた。
リカルドは、そのファイルを黒檀の机の上に置いた。鈍い音が響く
「君が私の提案を呑むのなら、私は君に二つの“利益”を約束しよう」
リカルドは人差し指を一本立てる。
「一つ、“自由と資金”だ。特務分隊長と言っても、軍の窮屈な指揮系統に組み込むつもりはない。君はこの国において、国王陛下と私以外の誰からも命令を受けない。君自身の判断で扱えると思った部下だけを集めて、好きに動けばいい」
「……」
「任務の遂行に必要と判断した経費は、国庫から無制限に引き出すことを許可しよう」
無制限。 カイの目が、わずかに見開かれた。
行商人時代、銅貨一枚を削るために頭を下げ続けた記憶が蘇る。金の心配がない。それどころか、使い放題。
カイの視線が、無意識に机の上の茶菓子へと向いた。これよりも美味いものが、毎日食えるということか。 その反応を見逃さず、リカルドは二本目の指を立てた。
声色が、甘く、冷たいものに変わる。
「そして、二つ目。君はベルクト卿の最後の弟子だそうだな」
カイの視線が、茶菓子からリカルドの顔へと戻った。
「ならば、君の師……ベルクト・ファロスが、なぜこの王都を追われねばならなかったのか。本当の理由を、知りたくはないかね?」




