第5話 王都ルステラ
王都ルステラの城門をくぐった瞬間、世界の色が変わった。
鼻を突くのは、香辛料と馬糞、そして古びた石の匂い。 足元には、何万、何億という足跡ですり減り、中央が窪んだ石畳が続いている。両脇に迫る石造りの建物は、互いに押し合うように密集し、空を狭く切り取っていた。黒ずんだ壁の随所に見える亀裂や、煤けた煉瓦の欠け。その無数の傷跡一つひとつが、カイという個人の時間を遥かに超えた、途方もない歳月の重みを無言で突きつけてくる。
「おい、邪魔だぞ!」
「新鮮な川魚! 朝獲れだ!」
「恵みを……どうか哀れな老人に恵みを……」
人の波も、商業都市テッラローザの比ではなかった。裕福そうな商人、異国の言葉を話す旅人、物乞いをする痩せた子供、そして、よそ者を値踏みするような目で見つめる屈強な傭兵たち。あらゆる身分の人間が、それぞれの目的を持って、この巨大な石の迷宮の中を絶え間なく行き交っている。
しばらく進むと、濃密な建物の壁が不意に途切れ、視界が開けた。 大河アルニオ。 濁った茶色の水面が、膨大な質量を伴ってゆっくりと流れている。その川幅いっぱいに、信じがたい巨大な岩の塊が横たわっていた。
ポンテ・アウレオ。この国で最も古く最も大きい橋だ。
それはカイの知る「橋」ではなかった。 巨大な石のアーチの上には、三階、四階建ての建物がびっしりとへばりつき、城壁のように対岸まで続いている。建物同士が支え合い、あるいは押し合い、川の上に複雑な影を落とすその姿は、橋というよりは川に浮かぶ要塞都市だった。
カイは口を半開きにしたまま、呆然とそれを見上げた。 橋の上からは、一つの街が放つような喧騒と、何かが焦げるような香ばしい匂いが漂ってくる。
――腹が、鳴った。
緊張していても、体は正直だ。カイは気まずそうに周囲を見回し、誰も聞いていないことを確認してから、橋のたもとへ歩き出した。
橋の両側には、もはや「店」というよりは、橋の構造と一体化した「商館」と呼ぶべき建物が並んでいた。王家の紋章を彫り込んだ銀の看板を掲げた宝飾店、カドゥーカ王国やモンテネーロ公国といった外国の珍品を扱う輸入商館、一般人では一生かかっても手に入らないような高価な香水を扱う専門店。それらの店構えは、ただ商品を売るためではなく、富と格式を見せつけるために存在しているかのようだ。
カイは人の流れに身を任せ、橋の上を進んだ。橋の中ほどに差し掛かった時、建物が途切れて視界が開ける場所があった。彼は欄干に軽く手を置き、そこから改めて、自分が今いる街の姿を見渡す。
見渡す限りの、赤煉瓦の屋根の海。その波間に、貴族の権勢を象徴する石造りの塔が林立し、街の景観に複雑な凹凸を与えている。そして、その全てを見下ろすように、街の中心に王宮の巨大な大円屋根が鎮座していた。
まずは今夜の宿を見つけるのが先決だ。安宿が集まるという地区の方角を、頭の中の地図で確認し、カイが歩き出す。その時だった。
「――“龍殺し”カイ殿でいらっしゃいますね」
心臓が跳ねた。 声は、すぐ耳元からした。
慌てて振り返ると、いつの間にか一人の男が背後に立っている。喧騒の中とはいえ、近づく気配など微塵も感じなかった。
四十代半ばほどの、痩身の男。 上質な濃紺の官吏服には皺ひとつなく、仕立ての良さが一目でわかる。穏やかな笑みを浮かべているが、ラピスラズリのような青い瞳だけは笑っていない。その視線は、カイの頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように冷ややかに見据えていた。
男は、宮廷作法の手本のようにお辞儀をしてみせる。
「お待ち申し上げておりました。私は宰相リカルド・ファビアン様に仕える者、グイドと申します」
「……え?」
カイの足が、無意識に半歩下がった。自分の到着が即座に、そして正確に把握されている。見えない蜘蛛の巣が、首筋に触れたような感覚。
「宰相閣下は、貴殿がアウレリア王国に計り知れない貢献をされた英雄であることを、深く理解しておられます。貴殿のようなお方を、歓迎の一つもなくお迎えするなど、国家の怠慢というものでしょう」
グイドの微笑みは崩れない。鉄でできた仮面のようだ。
「いや、俺は……まずは宿を探そうと思っていたので……」
断りの言葉を口にしようとした、その瞬間。グイドはカイの思考を先読みしたかのように、さらに言葉を重ねた。
「ご心配には及びません。宰相閣下が、貴殿の長旅の労をねぎらうため、王国最高の宿舎を、すでに官邸にご用意させております。もちろん、貴殿の同伴者であられる"プリル殿"の分も」
鞄の中で、プリルがびくりと体を震わせた。周囲を見る。いつの間にか、グイドと同じ制服を着た兵士が二人、人波を割るようにして退路を塞いでいた。兵士の手は、剣の柄には掛かっていないものの、いつでも動ける位置にある。
拒否権はない、ということか。
だが、「王国最高の宿舎」ということは、少なくとも野宿よりはマシなベッドと、まともな食事が期待できるということだ。財布の中身を気にせず腹一杯食べられるなら、悪い話ではないかもしれない。そう自分に言い聞かせるしかない。
カイは小さくため息をつき、頭を掻いた。
「……分かった。案内してくれ」
その諦めきった態度をどう解釈したのか、グイドの瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、純粋な興味の色が揺らめいた。無駄な抵抗をしない。状況を受け入れる。それが、彼には英雄ならではの器量と映ったようだった。
「賢明なご判断です。さあ、馬車の準備が整っております。こちらへどうぞ」
グイドの掌が、恭しく、しかし逃がさないように広場の隅を示す。そこには、周囲の喧騒を拒絶するように、漆黒の馬車が鎮座していた。
※※※※※※
宰相官邸の内部は、外の世界とは空気が違った。 磨き上げられた大理石の床は鏡のようにカイの姿を映し出し、歩くたびにカツ、カツと硬質な音が廊下に響く。天井は高く、壁には歴代の王族や風景を描いた絵画が並んでいる。
カイは自分のブーツについた泥が、床を汚していないか気になって仕方がなかった。何度も足元を確認し、少し背を丸めてグイドの後ろをついていく。
長い廊下の角を曲がった時だ。 向かい側から、豪奢な絹の服をまとった二人の男が現れた。 先頭を歩く年嵩の男が、大仰な仕草で立ち止まる。たっぷりと蓄えた髭、指にはめられた幾つもの宝石の指輪。見るからに高位の貴族だ。 男はグイドを一瞥し、鼻を鳴らした。
「おお、これはグイド殿。相変わらず、主人の犬としての務めに精が出ることだ」
「フォッサーノ公。宰相閣下がお待ちです。道をお開けいただきたい」
グイドは表情一つ変えず、淡々と告げる。だが、フォッサーノ公と呼ばれた男は、聞こえないふりでカイへと向き直った。
値踏みするような、粘り気のある視線。カイは思わず一歩引いた。
「君が噂の“龍殺し”か。ふん、随分と……若いの」
称賛ではない。珍しい動物を見るような目だ。
「リカルド卿はな、君にご執心のようだが……忠告しておこう。あの男にとって、人は盤上の駒に過ぎん。役に立っているうちは磨きもするが、不要になれば躊躇なく捨てる」
フォッサーノ公は一歩、カイに近づく。濃い香水の匂いが鼻を突いた。
「姫君の扱いを見ても明らかだ。我らが苦心してまとめたモンテネーロ公国への縁談を、あの男は独断で握り潰した。王家の伝統も、貴族の誇りも、奴には理解できんのだよ」
公の顔が近づく。唾が飛びそうだ。カイは顔を引きつらせながら、曖昧に首を傾げた。
「若いの、よく覚えておくがいい。あの男の甘言に乗れば、いずれ君も使い捨てられる。我らの扉は、常に開かれているぞ」
返答を求めるように、フォッサーノ公が沈黙する。
その場の空気が張り詰めた。グイドも口を挟まない。カイの出方を窺っているようだ。
カイは困惑した。何か言わなければ解放してくれないのだろうか。 視線が泳ぎ、やがて床の染みに固定される。
数秒の沈黙の後、カイは小さく口を開いた。
「……どうも」
それだけだった。 フォッサーノ公の顔が、期待外れといった風に歪む。 彼は忌々しげに舌打ちをすると、マントを翻した。
「……フン。田舎者は礼儀も知らぬか。行くぞ」
公はもう一人の貴族を伴い、荒い足音を立てて去っていった。嵐が去ったような静寂が戻る。
カイがほっと息を吐くと、グイドが静かに振り返った。その表情は、先ほどよりも僅かに柔らかい――あるいは、面白がっているようにも見えた。
「フォッサーノ公にあのような態度を取れる者は、宮廷でもそうおりませんよ」
「え? いや、あれは……」
言葉が出なかっただけだと言い訳しようとしたが、グイドは再び完璧な礼をして歩き出した。
「さあ、カイ殿。今度こそ、閣下がお待ちです」
カイは諦めて、その後を追った。
窓の外を見ると、王都の空はいつの間にか重い鉛色の雲に覆われ始めていた。遠くで、空が唸るような低い音が響く。
雨になりそうだ。
せめて夕食が美味いことを祈りながら、カイは重厚な廊下の先へと足を踏み入れた。




