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第4話 宴と騒動

夜の帳が下りきっても、領主の館は昼間のような光に満ちていた。


 壁という壁に掛けられた燭台の炎が、磨き上げられた黄金の食器や銀の杯にぎらぎらと反射する。天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、それ自体が富の権化のように、威圧的な光を投げかけていた。


 カイは目を細め、わずかに俯いた。手元のワイングラスに注がれた深紅の液体が、その光を吸い込んで黒く沈んでいる。


 しかし、彼の意識はそこにはなかった。


 視線が、テーブルの中央へ向かう。飴色の皮。滴り落ちる脂。漂ってくる香草と肉の焼けた匂いが、容赦なく鼻腔を刺激する。


 丸ごと一頭分の猪が、今まさに切り分けられようとしていた。行商人時代、干し肉と硬いパンで飢えを凌いでいた日々が、脳裏をよぎる。


 腹の奥が、きゅうと鳴った。


「カイ殿、さあ、遠慮なさらず。これは我が領内で今年一番の出来と評判のワインでしてな。英雄殿にこそ、まず味わっていただきたい」


 隣の領主が、でっぷりと肥えた腹を揺らし、ねっとりとした声で囁く。顔は酒と興奮で赤い。  カイは口を開きかけ――言葉が見つからず、結局、小さく頷いてグラスを持ち上げた。  一口だけ含む。味など分からない。喉が渇いていただけだ。


 猪の方が気になる。


 耳に届くのは、ざわめきと、追従を隠さぬ甲高い笑い声。隅では吟遊詩人が、カイを称える即興詩を歌っている。心もとなく揺れる音程が、不協和音を撒き散らしていた。


「いやはや、カイ殿の武勇伝には、この私も震えが止まりませんでしたぞ」


 領主は、カイが盗賊団のアジトで何をしたのか、見たわけでもないのに、まるでその場にいたかのように熱っぽく語り始めた。


「あの『龍殺し』の英雄が、我らが街のために! 天は我らを見捨ててはおられなかった! カイ殿がアジトを一睨みされると、大地は揺れ、空は裂け、雷鳴が轟いたそうで。盗賊どもは、その神威の前にひれ伏すしかなかったと!」


 カイの眉が、かすかに寄った。


 一睨み。大地が揺れる。


 そんなことはしていない。普通に斬っただけだ。


 だが、訂正する言葉が見つからない。口を開きかけて、閉じる。代わりに、ようやく切り分けられた猪の肉へナイフを伸ばした。


 領主は、その沈黙を「些細なことと気にも留めぬ英雄の器の大きさ」と解釈したらしい。満足げに頷き、さらに言葉を重ねようとした。


「カイ様、はじめまして」


 別の声が割り込んだ。けばけばしい紫色の絹の服をまとった、痩せた男。卑屈な笑みが顔に貼り付いている。


「この街で羊毛のアルティを取りまとめております、バルトリと申します。この度は、我らの街をお救いくださり、心より御礼申し上げます」


 男の手には、まだ十代半ばだろうか、娘が不安げな表情で寄り添っていた。


 カイの視線が、一瞬だけ、その娘の顔に留まる。


 整った顔立ち。しかし厚塗りの化粧が、本来の輪郭を覆い隠している。白粉の下にある素顔は、もっと——


 視線が、皿の上の猪肉に戻った。


「こちらは、私の娘のリディアにございます。カイ様のような偉大な方に、一度お目にかからせたくて……なあ、リディア、ご挨拶なさい」


 娘は父親に促され、か細い声で「……リディアと申します」と呟いた。深く頭を下げる。その仕草に、強いられた不自然さが滲んでいる。


「……ありがとうございます」


 カイは短く返した。言葉が、それ以上出てこない。男はなおも食い下がろうとしたが、カイの纏う空気が——というより、彼が肉を切る手を止めないことが——それ以上の会話を拒んでいた。渋々、引き下がっていく。


 次から次へと、地元の名士たちが代わる代わる挨拶に訪れた。


 カイの手は、その間もナイフとフォークを動かし続けている。猪肉。付け合わせの根菜。香草で味付けされた川魚。口に運ぶたびに、行商人時代には想像もできなかった味が広がる。


 悪くない。


 いや、美味い。素直に、美味い。


 だが、誰もがカイを「英雄」としてではなく、利用価値のある「力」としてしか見ていないことは、嫌でもわかった。視線の温度、声の抑揚、近づく時の計算高い間合い。共鳴感知など使うまでもない。


 挨拶の波がようやく途切れた頃、領主が芝居がかった咳払いを一つして、周囲の人間を下がらせた。カイのグラスに自らワインを注ぎながら、実に残念そうな顔でため息をついてみせる。


「いやはや、カイ殿。あなた様のような英雄を、このまま王都へ行かせてしまうのは、どうにも惜しい。実に惜しい」


 言葉を切り、カイの反応を窺うように視線を向ける。


「これから向かわれるという王都ですが……近頃、きな臭い噂ばかり耳にしましてな」


 下心が、声の端々から透けて見えた。カイをこの地に引き留めたい。それだけだ。


「聞くところによると、かのリカルド宰相閣下と、古くからの大貴族の方々が……シエナ王女の処遇を巡って、水面下で激しく火花を散らしておられるとか。今の王都は、我々のような地方の者には想像もつかぬ、深い泥沼だそうで」


 シエナ。


 その名を聞いた瞬間、カイの手が止まった。


 ベルクトの最期の言葉が、ざらりとした感触を伴って蘇る。


 『王都ルステラのシエナを頼む』


 あの声。あの目。今でも、鮮明に——


 領主はカイの硬直をどう解釈したのか、さらに言葉を重ねた。


「それに比べ、我が領地は平和なもの。もちろん、小うるさいハエはおりますが……それも、カイ殿のようなお方が一人いてくだされば、たちまち片付いてしまう」


 領主の声が、遠くで響いている。


「英雄殿がそのお力を振るうに、これほどふさわしい場所はないと自負しておりますが……いかがですかな?」


 カイは、数秒の沈黙の後、静かにグラスを置いた。


「……ご忠告はありがた」


 言葉を探す。見つからない。


「ですが、私には王都へ行かねばならない理由が」


「それは……」


 領主が言葉を重ねようとした、その時だった。


 カイの足元で、ぷるぷるとした感触。


 プリルだ。


 いつの間にかテーブルの下に潜り込んでいたらしい。カイの外套の裾を引っ張り、何かを訴えている。いや、違う。訴えているのではない。


 テーブルの端に置かれたローストチキンの大きな脚を、音もなく体内に取り込んでいた。そして、何事もなかったかのように、カイの隣にちょこんと座る。


 目を剥く領主に、「師から譲り受けた使い魔です。勝手なやつで……」と慌てて弁明するカイ。


 広間のざわめきは、相変わらず続いている。吟遊詩人が、声量を上げて、さらに調子の外れた英雄譚を歌い続けていた。


 カイが咎めるような視線を送ると、プリルはぷるんと一度体を揺らして、サッと体に淡いピンク色が混ざった。嫌な予感がした。


 「おい、プリル……」


 その瞬間、すべての音が止まった。


 いや、違う。会場に流れていた吟遊詩人の竪琴の騒々しい音が、まったく別の音色に塗り替えられたのだ。


 深く、澄み切った旋律。哀愁を帯びた音色が、広間の隅々まで染み渡る。そして、竪琴の音色に重なるように、凛とした、しかしどこか物悲しいテノールの歌声が響き渡った。失われた王国の栄光と、愛する人を守るために戦った古の騎士の物語。


 人々の視線が、音の発信源に釘付けになる。


 プリルだった。


 かつて聞いた宮廷詩人の卓越した演奏を、その声色、感情の機微、指が弦を弾く微細な音に至るまで、完璧に再現している。一曲が終わると、広間は一瞬の沈黙に包まれ、次の瞬間、割れんばかりの拍手と喝采が巻き起こった。


 顔面蒼白になった吟遊詩人が、すごすごと広間から逃げ出していく。


「素晴らしい! なんと素晴らしい芸だ!」


 領主が手を叩いて叫ぶ。


「カイ殿は、このような素晴らしい使い魔をお持ちだったとは! まさに英雄にふさわしい!」


 カイは曖昧に頷くしかなかった。心臓が痛い。早くポケットにしまいたい。


 だが、プリルは、すっかり気を良くしたらしい。


 カイの頭上をくるりと一回転すると、今度はひときわ甲高い声を張り上げた。


「まぁ、あなた! この宝石のように愛らしいプリルちゃんに、何か褒美をお与えになってはくださらないこと? そうですわね、あちらの大きなケーキを丸ごと一つ、いただきたいですわ!」


 領主の奥方の声真似だった。的確すぎる声真似と、内容の子供っぽさのギャップ。会場がどっと沸き、空気が緩んだ。領主も腹を抱えて笑っている。


「はっはっは! カイ殿の使い魔殿は、甘いものに目がないと見える! 実に可愛らしい! よかろう、後で部屋に丸ごと届けさせよう!」


 周りの名士たちからもどっと笑いが起こる。


 カイは肩の力を抜き、このくらいで騒ぎが収まるならと——


 だが、プリルは聴衆のその好意的な反応を、「もっとやれ」という喝采だと完全に誤解していた。


 カイの頭上をくるりと得意げに一回転すると、今度はひときわ甲高く、そして先程とは打って変わって、ねっとりとした粘つくような甘い声色で、言った。


「今夜あたり、カイ様をわたくしの寝室にこっそりご案内してさしあげたら、きっと旅のお疲れも癒やされるでしょうに……。オホホホホ!」


 ピシリ。


 空間にヒビが入る音が聞こえた気がした。


 領主の笑い声が、喉の奥で石になったかのように途切れる。名士たちの追従笑いもぴたりと止まった。水を打ったような静寂が、先程までの喧騒を飲み込む。


 遠くで、燭台の蝋がぱちりとはぜる音だけが、やけに大きく響いた。


 領主の顔は、みるみるうちに青ざめ、やがて怒りのあまり醬油で煮しめたようにどす黒く変色していく。


 そして、当の奥方本人は、一瞬、何が起こったのか理解できないという顔で目を白黒させた後、茹で蛸のように赤くなった。


 カイは——何が起きたのか、一瞬わからなかった。


 周囲の空気が一変している。領主が怒っている。奥方が真っ赤になっている。だが、なぜ?


 プリルの声真似が問題だったのか。だが、何がまずかったのか。寝室に案内する。疲れを癒やす。それの何が——


 ああ。


 ようやく、意味が繋がった。


 カイの頬に、わずかに熱が上った。


 もう、限界だった。


 プリルを鷲掴みにすると、無理やり外套の懐に押し込み、静かに立ち上がる。


「領主様、皆様。心のこもったもてなし、感謝いたします。ですが、この通り、私の使い魔が少々はしゃぎ過ぎてしまったようで。今宵はこれにて、失礼させていただきたい」


 プリルの起こした騒動のおかげで、もはや誰も彼を引き留めることはできなかった。カイは、逃げるように広間を後にした。




******




 客室に戻る長い廊下を歩きながら、カイは懐でぷるぷると蠢くプリルを睨みつけた。


 プリルは、カイの外套の隙間からにゅっと顔を出すと、悪びれる様子もなく、先程のカイ自身の声色を真似て言った。


「『素晴らしい使い魔をお持ちだったとは! まさに英雄にふさわしい!』だってー!」


 カイは、深々と息を吐いた。


 苛立つ。苛立つが、この小さな厄介者のおかげで、あの息の詰まる空間から抜け出せたのも事実だった。


 唇の端が、自分でも気づかないうちに、わずかに上がっていた。


 黙って出て行こうかとも考えたが、思いとどまった。


 机に向かい、羊皮紙を広げる。しかしペンを握る手は動かない。気の利いた言葉など、一つも浮かばない。 結局、一行だけ書いた。


『王都へ向かいます。世話になりました』


 子供のような筆跡だった。 書き終えてから、これではあまりに素っ気ないかと首を傾げ、数秒迷ってから付け足した。


『食事、美味かったです』


 窓の外、東の空がわずかに白み始めている。 カイは荷物をまとめ、音を立てずに部屋を出た。


 朝の冷気が、火照った頬に心地よかった。 胃袋はまだ少し物足りなかったが、足取りは軽かった。


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