第6話 宰相の提案
執務室は広く静まり返り、荘厳さと圧迫感が入り混じる不思議な空間だった。
背後に広がる巨大な窓からは、壮麗なクーポラを冠した王宮の頂が、まるで手中に収めたかのように見下ろせた。
王都ルステラの喧騒が、まるで別世界の出来事のように遠く聞こえる。床に敷き詰められた深紅の絨毯は、足音はおろか、あらゆる物音を吸い込んでしまう。壁という壁は天井まで届く書架で埋め尽くされていた。
「カイ殿、長旅の疲れもあるだろうに、突然呼びつけてすまなかったな。まずは、ゆるりと茶でも飲んでくれ」
声の主リカルド・ファビアンは、玉座のような部屋の主でありながら、驚くほど穏やかな物腰でカイを迎え入れた。カイが返事をする間もなく、彼は自ら執務机の脇に設えられた小卓へ向かい、手慣れた動きで茶器を並べ始める。銀のポットから、琥珀色の液体が純白の磁器へと注がれる。立ち上る湯気と共に、柑橘とミントを合わせたような清涼感のある香りが、張り詰めた空気をわずかに和らげた。
カイは勧められるまま、リカルドと向かい合うように革張りの椅子に腰を下ろした。リカルドは丁寧に茶を注ぎながら続けた。
「“龍殺し”カイ殿。君がロッカで見せた武勇は、すでに王都中の知るところとなっている。単刀直入に言おう。私は君を、ただの兵士として消費するつもりはない。君の功績と、その比類なき能力にふさわしい地位を用意した」
リカルドはカイの向かいに座ると、その目を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥には、温度というものが存在しないように思えた。
「我が直轄の特務分隊長の任に就いてもらいたい。君の力は、この国が今、最も必要としているものだ」
カイは黙って茶を一口含んだ。舌の上に広がる爽やかな風味とは裏腹に、腹の底は鉛のように重かった。先程聞いた貴族たちの会話が蘇る。この男は一体自分に何をさせようとしているのだろうか。
「ベルクト卿の不在は、我が国にとって計り知れない損失だ。これは感傷や感情論ではない。隣国カドゥーカ、そして南のモンテネーロ公国とのパワーバランスに関わる、極めて単純な数学の問題なのだよ。あの御仁一人が健在であるという事実だけで、どれほどの侵略の芽が未然に摘み取られていたか……。君には、その穴を、埋めてもらいたい」
ベルクトを追放したのは王国のはずだ。悪人であったかもしれないが、「損失」という表現はカイの神経を逆撫でした。
カイは、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。カチャリ、という硬質な音が、静寂の中でやけに大きく響く。
「お断りします」
その声は、自分でも驚くほど静かで、平坦だった。
「俺は、誰かのために龍と戦ったわけじゃない。俺には、俺自身のやるべきことがあります」
明確な拒絶。それは、この部屋の主に対して投げつけるには、あまりに無謀な言葉だった。だが、リカルドは怒るでも、落胆するでもなく、口の端に微かな笑みを浮かべた。
「“やるべきこと”、か。結構だ」
声には、先ほどよりも明確な面白がるような響きが混じっている。
「だが、その“やるべきこと”を成すための“手段”を、君は持っているのかね?」
彼はゆっくりと立ち上がると、執務室の壁を埋める書棚の一つへと歩み寄った。そして、重厚な革で装丁された一冊の分厚いファイルを取り出す。それには、アウレリア王家の紋章と共に、厳重な封蝋が施されていた。リカルドは、そのファイルを黒檀の机の上に、音を立てて置いた。
「君が私の提案を呑むのなら、私は君に二つの“利益”を約束しよう」
リカルドは人差し指を一本立てる。
「一つ、“自由と資金”だ。特務分隊長と言っても、軍の窮屈な指揮系統に組み込むつもりはない。軍事教育を受けている訳では無いしな。君はこの国において、国王陛下と私以外の誰からも命令を受けない。君自身の判断で扱えると思った部下だけを集めて、与えられた任務を果たしてほしい。任務の遂行に必要と判断した経費は、国庫から無制限に引き出すことを許可しよう」
破格の条件であった。カイは僅かに目を細める。その反応を見逃さず、リカルドは二本目の指を立てた。
「そして、二つ目。君はベルクト卿の最後の弟子だそうだな。ならば、君の師……ベルクト・ファロスが、なぜこの王都を追われねばならなかったのか。本当の理由を、知りたくはないかね?」




