幕間2 変化
鉄と炎、そして夜露に濡れたハーブの香りが、まだカイの記憶には焼き付いていた。
彼女の温もりを肌に残したまま、カイは今、テッラローザの喧騒の中にいた。
以前の猫背気味だった姿勢は消え、背筋は真っ直ぐに伸びている。旅を経て、まだ線の細い体には、無駄のないしなやかな筋肉が鎧のように張り付いていた。
荷車が軋む音。家畜の鳴き声。商人たちの怒声にも似た呼び込み。かつてカイを圧倒し、その存在をかき消したはずの市場の騒めきが、今はまるで分厚いガラスを一枚隔てたかのように、どこか遠い世界の音として聞こえる。
乾いた土埃の匂い。熟れた果実の甘い香り。焼きたてのパンが放つ香ばしい匂い。様々な匂いが混じり合う中で、ふと、燻された干し肉の香りがカイの鼻腔をくすぐった。
「……昔、これを売ろうとしたんだ」
「知ってる!全然売れなかったんでしょ!プリル、聞いたよ!」
「……うるさい」
プリルとの短いやり取りが、行商人時代のどうしようもない無力感と焦燥を思い出させる。しかし、すぐにその感傷を振り払うように、彼は前を向いた。
一軒の武具屋の前で足を止めた。旅の途中で使い潰した予備のナイフを新調しておこうと思ったのだ。店の前には、大ぶりの戦斧や鈍色の鎧が無造作に並べられている。店の奥から、油で汚れたエプロンをかけた恰幅のいい店主が出てきた。彼はカイを一瞥すると、その瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光を宿した。
「いらっしゃい。何かお探しで?」
店主の目は、カイの顔だけではなく、その身なりを素早く分析していた。着古された旅装は貧しい若者のそれだが、その下に覗く黒い革鎧の質感は明らかに常人のものではない。腰に下げた短剣の柄に彫られた紋様も、そこらの職人の仕事ではない。
この若者は、ただの小僧ではない。店主は瞬時にそう判断した。
「これを一本、もらおう」
カイが店先に並べられていた数打ちのナイフをカウンターに置く。店主はそれを指で弾き、軽い金属音を確かめると、わざとらしくため息をついた。
「お兄さん、見るからに腕が立ちそうだ。ナイフってのは旅の相棒だ。売ってる俺が言うのもなんだが、ケチるところじゃねえよ」
「……間に合っている。これで十分だ」
「そう言わずに。……そうだ、こいつはどうだい?」
店主が奥から取り出してきたのは、黒檀の柄に銀の装飾が施された、見事な短剣だった。刀身は月光のように青白い光を放っている。
「隣国カドゥーカのドワーフ鋼を使った逸品だ。本来ならアウラ金貨でも手が出ないが、あんたの腕に免じて、特別に銀貨十枚で譲ってやる。こいつがあれば、どんな魔物の皮だろうとバターみてえに切り裂けるぜ」
明らかにハッタリだった。しかし、その言葉にはカイの実力と財力を試すような、狡猾な響きがあった。
「……必要ない。このナイフでいい」
カイが動じずに言い返すと、店主は肩をすくめ、面白そうに口の端を上げた。「そいつは残念だ」と彼が言いかけた、その時――。
人だかりの中に、ロッカの街から命からがら逃げてきた避難民の家族がいた。やつれた母親が、カイを見て息をのみ、震える指で夫の袖を引いた。
「あなた……あの、鎧……」
「まさか……ロッカで見た、あの……龍殺しの……」
その言葉が、引き金だった。
「龍殺し」。その単語は、市場の喧騒を一瞬で凍てつかせるだけの力を持っていた。ざわめきが止む。呼び込みの声が途絶える。誰もが、信じられないものを見る目でカイを見つめた。
「じゃあ、彼がロッカでヴォーラを……」
「賢者ベルクトの、最後の弟子だという……」
「嘘だろ、まだほんの少年じゃないか……」
囁き声は、もはや好奇のものではない。それは、人知を超えた存在を前にした時だけ人が浮かべる、純粋な畏怖の色を帯びていた。
武具屋の店主は、周囲の異変に驚き、そしてすぐに全てを悟った。彼の顔から嘲笑が消え、商人としての計算高い光が瞳に戻る。これは商機だ。この若者に恩を売っておけば、後々どれほどの利益になるか。
「これは、とんだご無礼を!」
店主はカウンターから飛び出すと、平伏するのではなく、カイの前に深々と、しかし堂々とした態度で頭を下げた。
「噂の“龍殺し”のカイ様でいらっしゃいましたか!いやはや、このマルコ、目が節穴でございました!この街の商人として、英雄に最高のおもてなしをするのが我々の務め。よろしければ、私がカイ様のためだけに、最高の素材で、最高のナイフを打たせてはいただけませんでしょうか!代金など、カイ様の武勇伝をお聞かせいただけるだけで結構でございます!」
その態度の豹変ぶりは、見事という他なかった。
これが、「龍殺し」に向けられる視線。
カイは、その無数の視線と、商人の計算高い好意を全身で受け止めながら、唇を固く結んだ。――龍を殺したのはほとんどベルクトの力だ。彼は何も言わず、カウンターに銀貨を置くと、最初に求めたナイフを受け取って店を出た。
「カイ、みんな見てるねー!人気者なのー!」
肩の上で、プリルが楽しそうに体を揺らした。その悪意のない声は、カイの感じる居心地の悪さを、より一層深く抉るのだった。




