幕間3 避け得ない罠
夕暮れの光が斜めに差し、部屋を熟した果実のごとく甘く退廃的な色に染めている。
テッラローザの高級娼館、その最奥。カーラ・ロッシの私室で、カイはその主と向かい合っていた。
ロッカで得た報酬。ずしりと重いアウラ金貨の入った革袋を、カイはソファの脇のサイドテーブルの上に置いた。緊張で、喉が乾いている。
「カーラ、約束通り、利子と合わせて持ってきたぞ」
カーラは、漆黒の髪を指で弄びながら、テーブルの上の金貨を一瞥しただけだった。その蜂蜜色の瞳は、金貨ではなく、カイの顔をじっと見つめている。
「そんなものより、あなたの顔が見られて嬉しいわ、カイくん。さ、そんなところに立っていないで、こっちへいらっしゃい」
ビロード張りの長椅子に腰かけたまま、彼女はしなやかな手つきで隣の席を示す。カイは、言われるがままに、ぎこちなく腰を下ろした。
カーラはゆったりと身を乗り出し、カイの首筋に顔を寄せる。そして、わざとらしく、クン、と匂いを嗅いだ。吐息が肌を撫で、カイの背筋にぞくりとしたものが走る。
「あら……」
カーラの唇が、カイの耳元で甘く囁く。
「鉄と汗と……それから、微かにハーブの香りが染み込んでるわね。……あのカタブツと、ずいぶん“仲良く”やったじゃないの」
「なっ……!」
その言葉は、鋭利なガラスの破片のように、カイの胸に突き刺さった。羞恥で顔に血が集まるのが分かった。
「何を……」
「あら、違ったかしら?」
カーラはくすくすと笑いながら、カイの頬にそっと指を滑らせる。
「……俺は、ただ、借りを返しに来ただけだ」
「ええ、分かっているわ。だから、そんなに怖がらないで」
カーラは、狼狽するカイの様子を見て、満足そうに微笑んだ。そして、今度は深い同情と共感に満ちた、慈愛に満ちた姉のような顔になる。彼女は、硬直するカイの身体を優しく抱きしめた。
「ごめんなさい、意地悪なことを言ってしまったわ。でも、あなたの顔を見ればわかる。あなたは今、とても大きなものを背負って、道に迷っている……」
その声は、母性的で、抗いがたい。レナータの工房の清潔なハーブの香りの記憶が、この部屋に充満する濃厚なジャスミンの香りに、乱暴に上書きされていく。
「今夜は、難しいことは全部忘れて、ゆっくり休んでいきなさい。私が、あなたの傷を全部、癒してあげるから」
その言葉と同時に、カーラはカイの身体を、抗う隙も与えずに長椅子へと引き倒した。ビロードの柔らかなクッションが、カイの背中に押し付けられる。その手つきは、恋人というより、手負いの獣を手なずける調教師のそれに近かった。
この女は、俺の全てを見透かしているのではないか。何の得もなしに、娼婦がこんな態度を取るだろうか。カイの理性の片隅で、警鐘が鳴り響いていた。
「……やめろ、カーラ。俺は……帰る」
カイは体を起こそうと手を伸ばし、彼女の肩を軽く押して距離を取って長椅子から立ち上がった。ソファがぎしりと軋む。
「待って……。わたしはあなたが心配なの。とても寂しそう顔をしているもの……」
ドアへ向かう背中に、蜂蜜酒のように甘い声がかかる。服の裾が、弱々しく引かれた。振り返ると、瞳を潤ませ、唇を噛み締め、捨てられた子犬のようにカイを見上げている。その豹変ぶりに、足が縫い付けられた。
「行かないで。今のあなたは、一人でいちゃ駄目よ」
ぽろり、と涙が一筋、頬を伝う。
娼婦の涙だ。演技に決まっている。だが、万が一。万が一、この涙が本物だとしたら?そんなカイの逡巡を、カーラは見逃さなかった。
彼女はそっとカイの手を取り、ゆっくりと自らの豊満な胸へと導いた。心臓の鼓動が伝わってくる。カイの息が一瞬止まり、体が硬直する。
「愛した女性に甘えられるわけじゃないわ。疲れたときに男性がそっと羽を休める場所を提供するのが、私の使命よ。あなたは英雄なんだから、そんな自分を許してあげて……」
甘い、甘い毒薬だった。気がつくと、カイは帰る気がなくなっていた。カーラの胸に触れた手が、離れられず、逆に優しく握りしめている。
「いいのよ、カイくん。もっと楽になっていいの。あなたは頑張ったんだから……」
彼女の唇が、カイの唇を塞ぐ。ジャスミンの香りと、微かな酒精の味が、口内を満たした。レナータとの、涙の塩辛い味がしたキスが脳裏をよぎる。その罪悪感から逃れるように、カイは自らカーラの身体を求め、その背に強く腕を回していた。
違う、この瞳は嘘じゃない。そう信じる心地よさに、思考が沈んでいく。
カーラの巧みな愛撫は、カイの身体から理性を剥ぎ取っていく。唇は首筋を這い、舌が汗の塩味を確かめるように滑るたび、官能的な痺れが背筋を貫いた。指が胸から腹へ、そして下腹部へと降りていく。
「声、我慢しなくていいよ、カイくん。誰も聞いていないわ」
耳元で囁かれる甘い声が、さらに思考を麻痺させる。レナータとの夜が、断片的にフラッシュバックする。不器用な指先、涙の味、そして腕の中で安堵に震える身体。その記憶が罪悪感となって胸を締め付けるが、カーラの与える圧倒的な悦びが、その痛みを瞬時に塗りつぶしていく。背徳感が、むしろ快感を増幅させるようだった。
やがて、カーラは彼の欲望が臨界に達したのを見計らい、自らのドレスの肩紐を滑り落とした。夕日の残光が彼女の汗ばんだ白い肌を妖しく照らし出す。彼女は、狭いソファの上で器用に体勢を変え、カイの上に跨った。体重が彼にかかり、熱い肌が密着する。
「カイくん……私を見て。今は、私のことだけ考えて……」
二人の乱れた呼吸、肌と肌が擦れ合う生々しい音。彼女の心臓の鼓動が、彼の胸に直接伝わってくる。
「ふふ……、ここは少し手狭ね。もっと広いところで、ゆっくり楽しみましょう?」
彼女は先に立ち上がり、その完璧な裸身を惜しげもなく晒しながら、カイに手を差し伸べた。
「さあ、立てるかしら、私の“龍殺し”様?」
カイはふらつく足で立ち上がり、まるで操り人形のように、彼女のその手を取った。カーラに手を引かれるまま、寝室の扉を開ける。
シルクのシーツが、汗ばんだ背中にひやりと心地よい。場所が変わったことで、一度途切れかけた意識が抗いがたい奔流に飲み込まれていく。シーツが衣擦れのように鳴る乾いた音、より激しくなる互いの求め合う声。カイは、ただ目の前の女が与える快楽に身を任せるしかなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。
行為の合間に、カーラはカイの髪を優しく撫でながら、相槌を打ち、彼の言葉に耳を傾けた。疲れ果て、無防備になったカイは、ベルクトとの旅や彼から託されたシエナ王女への漠然とした想いを、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……王都のことは、私も少しは知っているわ」
全てを聞き終えると、カーラは汗ばんだカイの額にキスを落とした。
「今の王都は、腐りきった果実よ。王様は飾り物で、実権は古くからの貴族たちが握っている。彼らは自分たちの懐を肥やすことしか考えていないから、国はどんどん貧しくなり、民の不満は爆発寸前。あちこちで、王家に反旗を翻そうとする連中が、日に日に力をつけているわ」
「反乱……?」
「ええ。そして、その中で一人だけ、奇妙な男がいる」
「奇妙な男?」
「宰相リカルド・アステル。彼はね、カイくん、腐った貴族とは違うらしいわ。常に民の側に立ち、彼らを救うような政策を次々と打ち出しているわ。おかげで、民衆からの支持は絶大。今や、王に並ぶほどの影響力を持っていると言ってもいい」
カーラは、カイの身体の上に指を滑らせながら、続ける。
「でも、そのせいで、王様や他の貴族たちからは蛇蝎のごとく嫌われている。いつ失脚させられても、あるいは暗殺されてもおかしくない。危うい綱渡りをしているのよ」
「じゃあ、その宰相は……良い人間なのか?」
どうかしらね、とカーラは意味ありげに微笑んだ。
「ただ、民を想っているのは本当のようよ。私のような裏路地の人間にも、彼の政策の恩恵は届いているから」
「じゃあ、シエナ王女は……」
カイが問いかけると、カーラは少しだけ同情するような表情を見せた。
「侍女たちの話では、とても心優しい、聡明な方だそうよ。父である王様や、民のことも、心から案じているとか。でも外の民衆からは『腐敗した王族』の一人として、憎まれている。彼女が街に出れば、石を投げつけられてもおかしくないわ」
その言葉に、カイは息をのんだ。ベルクトのノートに書かれた彼女の悲劇と、板挟みにあう王女の姿が、重なって見えた。その心の揺らぎを、カーラは的確に捉えた。彼女は、再びカイの唇を求め、彼の思考を快楽の底へと引きずり込んでいく。
二度目の行為は、より深く、より長く続いた。カイの罪悪感は、痺れるような陶酔によって完全に麻痺させられていた。
「……実はね、カイ。私も、そろそろこの街を出ようと思っているの」
朦朧とするカイの耳元で、カーラが不意にそう囁いた。
「え……?」
「このテッラローザは、居心地はいいけれど、所詮は地方都市。私の商売を大きくするには、小さすぎるわ。それに、これからの時代、一番面白いことが起こるのは、間違いなく王都よ」
彼女の蜂蜜色の瞳が、野心の色にきらめいた。
「あなたが王都に飛び込むのだもの。面白いことにならないはずがないわ。私も、近く拠点を移すわ。王都でなら、もっとあなたの力になれる。もちろん、それ相応の見返りは期待させてもらうけれど」
彼女はくすりと笑い、カイの唇に軽くキスをした。
「だから、もし王都で困ったことがあったら、必ず私を頼りなさい。あなたはもう、一人じゃないのだから」
カイは、感謝と、心地よい隷属感の中で、こくりと頷いた。
その無垢な瞳を見つめ、カーラは満足げに微笑む。金貨よりも遥かに重く、そして甘美な貸しが、今この瞬間に成立したことを確信しながら。




