第35話 ありのままの世界
カイが戦いの余韻に浸っていると、荷馬車の陰から恐る恐る顔を出した商人たちが、カイの元へと駆け寄ってきた。
「あ、ありがとうございます…!あなた様がいなければ、我々は…!」
最初に声をかけたのは、白髪の老婆だった。皺だらけの手でカイの手を固く握り、涙を流しながら何度も頭を下げる。その顔には、まだ恐怖の色が残っていたが、それ以上に強い感謝の念が浮かんでいた。
老婆はカイに感謝を述べた後、隣で呆然と立ち尽くす少年の肩を抱いた。その少年は、まだ10歳くらいだろうか。両親を目の前で喰われ、恐怖で声も出せず、ただ虚ろな目で地獄の跡地を見つめていた。
かつて行商人だった頃には決して交わることのなかった、身なりの良い商人たち。その彼らが今、泥と血に汚れた自分に、感謝と、そして必死に縋るような視線を向けている。
その時、カイは商人たちの中に奇妙な存在がいることに気づいた。
荷馬車の残骸の陰で、一人の小柄な人影が震えながら立ち上がった。薄汚れた粗末な服を着ているが、その頭部から突き出た三角形の耳と、腰の後ろで不安そうに揺れる長い尻尾が、カイの注意を引いた。
「リンクス族…?」
カイは思わず呟いた。テッラローサの周辺では、ほとんど見かけない種族だった。
その姿が明らかになるにつれ、カイは息を呑んだ。全身を覆う灰褐色の短い毛皮、頭頂部から生えた先端に黒い房毛のついた三角形の耳、そして暗闇でも光を捉えるであろう縦長の瞳孔を持つ大きな瞳。遥か南方の砂漠と密林に住まうという獣人である。
年はカイより少し下だろうか。砂色の毛皮は土埃に汚れ、大きく見開かれた黄金色の瞳は、カイに対して怯えと、そして言葉にならない感謝の色を浮かべていた。
だが、彼女は決して人間たちの輪に加わろうとはしない。まるで、そこに自分の居場所はないと、生まれながらに教え込まれているかのようだった。
「おい、ミーシャ!無事だったか!」
商人の一人が、そのリンクス族に向かって叫んだ。しかし、その声には安堵よりも、むしろ苛立ちが含まれていた。
「ったく、荷物の見張りもろくにできないのか。高い金払って雇ってやってるってのに」
リンクス族の少女──ミーシャと呼ばれた彼女は、その言葉に耳を伏せ、尻尾を足の間に巻き込むようにして縮こまった。
「も、申し訳ございません、旦那様…」
彼女の声は、恐怖と卑屈さに満ちていた。それは、長年虐げられてきた者特有の、自己防衛のための態度だった。
その光景に、カイは胸の内に奇妙な棘が刺さるのを感じた。同じく命からがら生き延びたはずなのに、なぜこの少女だけがこんな扱いを受けているのか。
「リンクス族がこんな北にいるなんて珍しいな。カシャバナの砂漠から、はるばる流れてきたのか」
ベルクトが、興味深そうに呟く。それに答えたのは、商人の吐き捨てるような声だった。
「こいつの親が、借金のカタに売ったんですよ。リンクス族なんて、まともな仕事に就けませんからね。せいぜい荷物運びか、夜の見張りくらいしか使い道がない」
ミーシャの耳が、さらに深く伏せられた。彼女の瞳には、諦めと悲しみが濃く滲んでいた。
「でも、今回みたいな時は役に立つんだ」
別の商人が付け加えた。
「こいつらの聴覚と嗅覚は、人間の比じゃない。危険を察知するのも早い。まあ、今回は間に合わなかったみたいだがな」
彼は、ミーシャを見下ろしながら続けた。
「それに、夜目が利くから、夜の見張りには最適だ。人間なら松明が必要だが、こいつらなら暗闇でも問題ない。餌代も安く済むしな」
商人たちの言葉が、カイの耳に不快に響く。彼らはミーシャを、便利な道具としか見ていない。同じ命を持つ存在なのに、種族が違うというだけで、こんな扱いを受けているのか。
「あの…」
カイは、ミーシャに声をかけようとした。しかし、彼女は怯えたように後ずさりした。その反応に、カイは胸が痛んだ。どれほど長い間、このような扱いを受けてきたのだろうか。彼女との距離は、彼らが置かれた立場の厳しさを、何よりも雄弁に物語っていた。
震えながら感謝を述べた人々が、同じ人間の子どもは必死に庇い、獣人の少女には鬱憤をぶつける。自分が守ったものの中に、差別と偏見も含まれていたのだ。
誇らしさと、どうしようもない無力感。この世の不条理への怒り。渦巻く感情を表情に浮かべるカイを、ベルクトは興味深げに観察していた。
「結果だけ見れば上出来だ。だが、まだまだ課題も多い。まあ、伸び代だな」
その声は師としての厳しさを含んでいたが、灰色の渓谷での一件を経て、以前よりもどこか優しい響きを帯びていた。
「もう、ベルクトはいっつもそうなんだから!カイはすごかったんだよ!ねー!」
プリルがカイの頭の上に乗り、まるで自分のことのように憤慨してカイを庇い、彼の髪を優しく撫でる。
※※※※※※
生存者の確認が終わり、失ったものの多さに打ちひしがれる商人達。そんな彼らにベルクトは極めて冷静な声をかけた。
「感傷に浸るのは結構だが、いつまでもここにいるのは得策ではない。死臭に釣られて、次に何が来るか分からんぞ」
商人たちははっと我に返り、慌てて旅の支度を再開した。彼らは難を逃れた商品や貴重品を丁寧に選別し、手持ち全てを差し出すような慇懃な態度で数枚の金貨を差し出した。それが襲撃による損失ゆえの苦渋の礼なのか、それともしたたかな値切りなのか、カイには判断がつかなかった。
カイが礼を受け取ると、ベルクトが傍らでぽつりと呟いた。
「ちょうど良い訓練だと思いけしかけたが、良く考えればあの商人たちが全滅してから手を出すべきだったな。そうすれば積荷が丸々手に入った。私としたことが……」
カイは言葉を失った。この老人は、本気で言っている。
「……あんたって人は……」
「鬼!悪魔!人でなし!ベルクトのバーカ!」
プリルの甲高い罵声が、夕暮れの街道に響き渡る。しかし、ベルクトは涼しい顔で肩をすくめるだけだった。
その夜、一行は街道から少し外れた森の中で野営をすることにした。襲撃された商人たちも、カイたちと行動を共にした方が安全だと判断したのだろう、同じ場所で火を囲んでいた。
パチ、パチ、と焚き火の爆ぜる音が、夜の静寂に響く。
炎が周囲の木々を赤く照らし、人々の顔に揺れる影を落としていた。日中の戦闘を生き延びた安堵感とは裏腹に、空気は鉛のように重い。商人たちの目はうつろで、震える手でスープの器を口に運ぶ者、虚空を見つめたまま微動だにしない者、そして、昼間の惨劇の光景が脳裏に焼き付いているのか、時折、びくりと体を震わせる者もいた。
カイが「皆さんは、どちらから…?」と尋ねると、商隊の長らしき初老の男が、重い口を開いた。
「実は…私たちは、北から逃げてきたんです。北の…グラーヴェの谷から…。いや、もう、あの谷は終わりです…」
その言葉をきっかけに、堰を切ったように、恐怖の記憶が語られ始めた。
それは、カイがテッラローザでカーラから聞いた、どこか現実味のない「噂話」とは全く質の違う、血と絶望にまみれた生々しい証言だった。
「あの龍が現れてから、北の森も山も、何もかもがおかしくなった。見たこともねえ魔物どもが、雪崩みてえに南へ下ってきて……今日の石噛み虫も、きっとそうだ。奴らも、あの途方もねえ何かから逃げてきたに違いねえ……」
別の商人が、震える声で呟く。
「あの黒い龍……“貪食者ヴォーラ”と……北から命からがら逃げてきた者たちが、そう呼んでいました…」
ヴォーラ。カイの脳内で、カーラの言葉と、今目の前で語られる地獄が一つに繋がった。
「夜の闇よりも黒い鱗でした……。月明かりを吸い込むような、ぬらりとした黒……。そして、その瞳は地獄の業火そのもの……燃え盛る紅蓮の光で……」
「我らの街の誇る魔術師たちが放った炎も氷も、あの鱗に当たると、まるで小石でも投げつけたかのように、シュッと音を立てて霧散して……。何一つ、通じなかった……」
「あれは空腹で喰っているんじゃない…まるで"楽しむ"ように人を喰らって…」
言葉を詰まらせ、男は顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。その隣で、別の男が、まるで自分に言い聞かせるように、うつろな声で続ける。
カイは、黙って話を聞いていた。戦闘の興奮はすっかり冷め、商人たちの言葉が紡ぐ漆黒の巨龍が、彼の思考を支配する。その巨大な影が、今この場の焚き火の光さえも飲み込んでしまうような錯覚。昼間、自分の手で斬り伏せた石噛み虫の重みが、急に虚しく、取るに足らないものに感じられた。
ふと、カイは焚き火の向こう側に座るベルクトに目をやった。師は、商人たちの話に、異常なほど熱心に耳を傾けていた。その瞳に浮かんでいるのは、恐怖や同情ではない。
ベルクトが、静かにその名を反芻した。
「ヴォーラ…“貪食者”…」
まるで初めて聞く名前であるかのように、しかしその声音には、長年追い求めてきた宿敵の名をようやく確認したかのような、奇妙な響きがあった。
夜が更けていく中、商人たちは恐怖に怯えながら眠りについた。プリルも、カイの腕の中で小さくなって眠っている。
しかし、カイは眠れなかった。
焚き火の炎の向こうでは、ベルクトもじっと夜空を見上げていた。その横顔は、まるで何か大きな決断を下そうとしているかのように見える。
カイも夜空を見上げると、星々が冷たく瞬いていた。その中の一つは、まるで血を吸ったかのように、不吉な赤い光を放っていた。




