第36話 狂気と友情
旅路には、風の音と、単調な足音だけが続いていた。乾いた赤土に深く刻まれた街道の轍は、丘陵地帯をどこまでも伸びている。
カイは、フードを目深にかぶり、俯きがちに歩く。
頭の中では、数日前に別れた商人たちの顔が、焼き付いた陽画のように繰り返し浮かび上がる。石噛み虫に貪り食われた護衛の、肉が引き裂かれる音。息子が……」と呟いた母親の、絞り出すような声。そして、彼らから聞いた「貪食者ヴォーラ」という名。
勝利で得た高揚感は、巨大な悲劇の現実を前にして、すっかり萎んでいた。
数歩先を行くベルクトは、いつもと変わらぬ優雅な足取りで歩いていた。だが、瞳は遥か遠くの何かを見据えているようで、横顔には一切の感情を映さない。時折、カイの様子を盗み見るが、言葉をかけることはなかった。時折、風に煽られて彼の長い白髪が揺れる様は、この荒涼とした風景の中では、あまりに不釣り合いなほど美しかった。
カイの肩の上では、プリルもまた沈黙していた。いつものように跳ね回ったり、カイの耳元で冗談を囁いたりすることはない。カイのマントの端を小さな手でぎゅっと掴み、ただ静かに丸まっていた。
重苦しい沈黙が続いていた旅路の途中、カイはついに耐えきれなくなり、ベルクトに問いかけた。
「……なあ、ベルクト。龍っていうのは……そんなに、ヤバいのか?石噛み虫の群れとは、比べものにならないっていうのは分かるけど……」
カイの問いに、ベルクトは僅かに視線を彼に向け、ふっと息を漏らした。その表情は、難解な問いに思索を巡らせる哲学者のようでもあり、出来の悪い生徒を諭す教師のようでもあった
「以前も話したが、龍という種は、我々人間や他の生物とは生命の理が異なるのだ。我々が歳を重ねるごとに肉体が衰え、やがて土に還るのに対し、彼らは喰らった魂の律動を取り込み、歳を重ねるほどに際限なく増大する。彼らにとって『時間』とは、衰退ではなく、力の蓄積を意味するのだ」
ベルクトの言葉は、淡々としていた。
「幼竜は、獣に毛が生えた程度の知性しか持たないが、それでも並の騎士団では歯が立たない。数百年を生きる成龍となれば賢人を超える知性を持ち、魔法を行使し、その力は天災に等しくなる。そして――」
ベルクトの声が、畏怖に近い響きを帯びた。
「八百年を超えた竜は、古竜と呼ばれる。彼らは、もはや自然そのものだ。その律動は、世界の法則を歪める」
「……」
「もっとも」とベルクトは続けた。
「大半の龍は、その高い知性ゆえに、我々人間を意図的に襲うことはない。人間は面倒なのだよ。知性があり、集団で行動し、しかも魔力は大した餌にならない。龍にとって人間を狩るのは、君が蟻を一匹ずつ捕まえて食べるようなものだ。労力に見合わない」
カイは、その言葉にわずかな安堵を覚えようとした。だが、ベルクトはそれを許さなかった。
「――だが、それはあくまで“大半の”龍の話だ。ごく稀に、その理から外れた個体が出現する。蟻の巣をただ面白半分に踏み潰す子供のような、そんな存在がな」
ベルクトの言葉は、不吉な予言のように、荒涼とした風景に溶けていった。
やがて、三人の影が巨大な日時計の針のように、ゆっくりと長く伸びていく。夕暮れの最後の光が消え、夜が来る。
街道から少し外れたくぼ地を見つけ、三人は野営の準備を始めた。
カイは、もはや慣れきった手つきで、思考を挟むことなく機械的に動いた。枯れたオリーブの枝を拾い集め、足で踏み折る。パキッ、パキッ、と乾いた音が、張り詰めた静寂の中でやけに大きく響いた。彼は指先に意識を集中させ、ベルクトから教わった初歩の魔法で火種を生み出す。ちろちろと頼りなげに生まれた炎は、やがて乾いた枝に燃え移り、パチパチと音を立てて夜の闇を払い始めた。
立ち上る煙の匂い。夜の冷気が、炎の届かぬ背中を容赦なく刺す。
カイが携帯用の鍋で簡単なスープを温めていると、ベルクトが革のワイン袋を取り出し、静かに一口飲んだ。
「一口どうだ。身体が温まる」
差し出された革袋を持つ彼の手が、ほんの微かに震えているのをカイは見逃さなかった。それは、寒さか興奮か、あるいは歓喜の発露だろうか。
カイが受け取ろうと手を伸ばした、その時だった。
「カイ、私の次の目的地が決まった。ロッカへ行く」
ベルクトの声は、どこまでも平坦で、議論の余地を一切含まない響きを持っていた。
カイの手が、空中で止まった。差し出されたワイン袋の革の匂いが、やけに強く感じられる。スープの煮える音、薪が爆ぜる音、それら全てが一瞬遠のいた。
瞳孔が収縮し、すぐに見開かれた。乾いた喉の奥が張り付き、飲み込もうとした唾は、砂のようにざらつく。
「……は?」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れ、自分のものではないように響いた。
「何を、言ってるんだ……?」
ベルクトは、カイの凍り付いたような表情を意にも介さず、淡々と語り始めた。
「商人たちの証言、そして灰色の渓谷で観測した律動の残滓。奴が次に“饗宴”の場として選ぶ可能性が最も高いのは、あの岩壁都市ロッカだ」
パチッ、とひときわ鋭い音を立てて薪が爆ぜた。揺らめく焚き火の炎が、ベルクトの顔に不規則な影を作り出す。その横顔は、歓喜に震え、笑っているように見えた。
「その行動パターン、好む獲物、そして何よりも、その魂の特異な『律動』…。これまでの情報を統合すれば、もとよりアウレリア北部が“饗宴場”となる可能性が最も高いと、予測はついていた」
ベルクトは続けた。彼の声は、もはや老人のそれではなく、未知の美神に魅入られた若者のように、熱っぽく震え始めていた。
「予測が……ついていた……?」
カイは、自分でも信じられないほど低い声で繰り返した。全身の筋肉が硬直し、顎の奥がピクピクと痙攣する。一方でどこか冷静な頭に、薄暗い王立律学院分校の景色が思い返された。ベルクトはあの時に「観測した」と言っている。いったい、何を?
「なあ、ベルクト……灰色の渓谷にあったあの古い魔法陣は……あれは、まさか……?」
「ああ、そうだ。あの魔法陣はヴォーラを観測するために以前作成したものだ。かつてないほど近づいたことで、ヴォーラの魂について実に多くの知見があった」
その言葉に、カイは背筋が凍る。カイの心を凍りつかせたのは、その事実そのものではない。その告白を語るベルクトの瞳に宿る、あまりに深く、そして昏い時間の影だった。あの分校は、明らかに長い年月をかけて廃墟と化していた。
「いつからだ……?いつから準備している?たしかあの時、あんたは『若い頃にここで学んだ』って言っていたよな……?」
ベルクトはカイの動揺など存在しないかのように、静かに、しかしその瞳の奥に狂的な熱を宿して語り始めた。
「ヴォーラは、ただの龍ではない。奴は生きるためではなく、純粋な快楽のために様々な生き物を喰らう。いわば珍味に魅せられた『美食家』なのだ」
ベルクトの瞳は、燃え盛る炎の向こう側、彼岸にある自らの理想だけを見つめている。
「ヴォーラは、幾百、幾千という生命の律動を貪り喰らいながら、それを破綻させることなく、自らの魂のうちに無理やりねじ伏せ、歪みながらも一つの強大な調和を保っている。究極のサンプルだ。その魂の構造を間近で観測できる、千載一遇の…」
カイには焚き火の向こうに座る老人は、まるで断崖の上に立つ石像のように、巨大で、そして冷たく見えた。
この老人は狂っている。その狂気は、一過性の激情ではない。永い年月をかけてじっくりと醸成され、その魂の芯にまで染み込んだ、信仰にも似た何かだ。
思いつきではない。半世紀にわたる探求の最終章。
ベルクトは、どこか満足げですらあった。しかし目の前で化石のように固まっているカイの顔を見て、彼の表情が揺らいだ。視線がカイの燃えるような瞳から逸れ、揺らめく焚き火の炎へと、逃れるように彷徨う。
「……これは、私の個人的な探求だ。常軌を逸していることは、まあ、自覚している。君が付き合う義理はない」
そして、ポツリと言った。
「……テッラローザへ戻れ」
しばらく呆然としていたカイが、その言葉でようやく我に返った。彼が我に返って発した最初の言葉は、怒りでも悲しみでもなく、純粋な困惑だった。
「…………は?」
カイは、呆れ返った顔でベルクトを見た。
「お前、そんな性格だったかよ。人が死ぬのも構わねえって顔で、自分の狂った研究の話をさんざん聞かせた後で、急に俺の心配か?気味が悪いにもほどがあるぞ」
カイの言葉に、ベルクトは観念したように、深いため息を一つ吐いた。
「……君の言う通りだ。実に、論理的ではないな」
彼は、自らの内なる変化を、ようやく言葉にし始めた。
「当初は、君を便利な旅の連れ、あるいは万が一の際の気休めの盾くらいにしか考えていなかった。それだけだった。だが…」
ベルクトはそこで一度言葉を切り、初めてカイの目を真っ直ぐに見た。その眼差しには、深い苦悩の色が滲んでいた。
「だが……この旅は、長すぎたのかもしれんな」
ベルクトは、自嘲するように、しかしどこか懐かしむように、遠い目をして焚き火の炎を見つめた。
「君の不器用な優しさに、世話を焼かれる日々。他愛もない会話。そして、君が私の教えを、驚くべき速さで吸い込んでいく様を間近で見ているうちに……」
彼は、まるで自分でも気づかぬうちに、心の奥底に染み込んでいた温かいものを、今になって確かめるように言葉を探した。
「私の内で、何かが少しずつ変わっていった。そして……灰色の渓谷で、君が私の手を掴んだ時、その変化は決定的になった。私の生涯をかけた探求が、揺らいでしまった」
その告白は、分析や理屈ではなかった。彼は、苦しげに顔を歪め、再び炎に視線を落とした。
「今も私の全てが、ロッカへ行けと叫んでいる。だが、君を死地へ突き合わせる気には、どうしてもなれない」
カイの知る、常に自信に満ち、世界のすべてを解き明かさんとする賢者の姿ではなかった。自らの矛盾に苦しむ、ただの一人の老人の、痛々しい姿だった。
ベルクトは、ついにカイへと向き直った。その瞳には、深い後悔と、そして懇願にも似た光が宿っていた。
「君は、私の過ちに付き合う必要はない」
その声は、絞り出すような響きを持っていた。
戻れ?
理性が囁く。カーラやレナータの顔、テッラローザの温かい灯りが脳裏をよぎる。安全な場所へ。穏やかな日々へ。それは、あまりに甘美な誘惑だった。
だが、それ以上に鮮明に、これまでの旅路が心のスクリーンに映し出された。 生活能力のないこの老人のために、悪態をつきながらも食事の世話を焼いた日々。彼の語る世界の法則に、知らず知らずのうちに胸を躍らせた夜。自分の未熟な魔法が初めて形になった時、口では皮肉を言いながらも、その瞳の奥に確かな満足の色を浮かべていた、師の顔。
この男と出会わなければ、自分は今もなお、田舎町で無力感に打ちひしがれていたはずだ。世界の美しさも、その法則の深遠さも、そして何より、自分の内に眠る可能性にすら気づかぬままだった。
大恩のある師を、そして狂気に満ちた不器用な友人を、こんな形で見捨てていいはずがない。
「……ふざけるな」
静寂を破ったのは、諦めと、呆れと、そしてどうしようもない深い情が入り混じった、カイ自身の声だった。
「あんたを一人で行かせて、俺がテッラローザで枕を高くして眠れるとでも思ってんのかよ」
カイはゆっくりと立ち上がると、焚き火を回り込み、ベルクトの隣に腰を下ろした。そして、ロッカのある暗い闇の先を、ベルクトと同じ方向を見つめて言った。
「あんたのその狂った研究にも、目的にも、これっぽっちも共感できねえ。反吐が出る。だが、あんたが俺の師匠で、とんでもなく手のかかる友人だってことは、もう認めちまったんだ」
その顔つきには、かつての自信なさげな少年の面影は、もはやどこにもなかった。
「だから、俺も行くぞ、ロッカへ」
その声は、力強く、そして揺るぎなかった。
「狂気の果てだろうが、地獄の底だろうが、一人で行かせねえよ」
その言葉を聞いたベルクトは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、驚愕と、何か眩しいものを見るような、あるいは息子を誇る父親のような、複雑で、しかし温かい光が宿っていた。彼は何も言わず、ただ、再び前方の闇を見据えた。 その横顔が、ほんの少しだけ、和らいだようにカイには見えた。
プリルが、二人の間の張り詰めていた空気が和らいだのを感じ取り、カイの腕にぴょんと飛び移ってきた。
「プリルも一緒に行くからね!」
その声だけが、重い覚悟に満ちた夜の中で、唯一、屈託のない響きを持っていた。
※※※※※※
重い覚悟を分かち合った夜から、数週間が過ぎた。互いに余計な言葉は交わさなかったが、二人の間にあった見えない壁は消え、沈黙でさえもが信頼の色を帯びていた。
そして夜明け前。彼らは、ロッカの街の灯りが遠くに見え始める丘の上に立っていた。東の空が白み始め、星々の最後の輝きが、夜の藍色に溶けようとしている。
ベルクトは、ふと足を止め、懐から大切そうに、使い古された革表紙の研究ノートを取り出した。
「カイ、これを。……この先、どうなるか分からん。君が持っていてくれ。
その声は、凪いだ湖面のように静かだった。
「中身を、君が今すぐに理解する必要はない。これは、この世界の根源に触れるための私の生涯の記録だ。常人には理解し難く、あるいは“狂気”と断じられるかもしれんな。だが……」
彼は一度言葉を切り、遠い目をした。
「いつか、この世界の真理の一端に触れようとする、私と同じような“愚か者”の手に、これが渡る日が来ることを願っている。それだけが、私の研究者としての最後の、ささやかな望みだ」
カイは、黙ってノートを受け取った。その革表紙のざらついた感触と、インクと古い紙の匂いが、人生そのものの重みとなって、彼の手にずしりとのしかかった。
それまでベルクトの外套の裾を掴んでいたプリルが、今度はカイのマントに強くしがみついた。その瞳には、拭いきれない不安が見える。
カイがノートを懐にしまい、顔を上げた、その時だった。
遠くから、しかし腹の底に響くような地響きが、大地を微かに震わせた。 続いて風に乗って、おびただしい数の人間の絶叫と街の警鐘の狂ったような乱打の音が、一つの塊となって彼らの元へ届いた。
カイの腰に差した短剣、その柄に埋め込まれた「星詠みの涙」が、警告を発するかのように、革の鞘を通しても分かるほど急激に冷たくなった。石が内部で震えている。
ロッカの方向へ目をやると、街から立ち上る黒煙が、夜明け前の空を汚しているのが見えた。
カイはレナータから託された剣の柄を、砕けんばかりに握りしめる。 彼の瞳には、もはや迷いの色はなかった。
三つの影が、絶望が待ち受ける街へと向かって、夜明けの光の中を進み始めた。




