第34話 激闘
胃の奥からせり上がってくる酸っぱい塊を、カイは奥歯を噛みしめて飲み下した。
足が震える。武者震いのような勇ましいものではない。純粋な、恐怖による震えだった。
目の前で繰り広げられる惨劇は、彼がこれまで想像していた戦いとはあまりにもかけ離れていた。
レナータが涙を浮かべながら渡してくれた剣の重みが、急に何倍にも感じられた。この剣で、あの化け物どもと戦うのか。自分も、あの護衛の男のように、骨を砕かれ、内臓を食い散らかされるのか。
だが、動かなければ、馬車の陰で寄り添うあの老婆と孫娘も、やがて目の前の男と同じ「餌」になる。
「う、おおおおっ!」
意味のない咆哮を上げ、カイは震える両足に叱咤して地を蹴った。
狙いは、犠牲者の腕を咀嚼していた一匹。恐怖を振り払うように振り下ろした剣は、しかし、力みすぎたせいで太刀筋がわずかにぶれた。 甲高い金属音と共に、剣先が石噛み虫の硬い外殻の上を滑る。
だが、手元に返ってきた衝撃は、カイの予想を裏切るものだった。以前の安物の剣なら刃こぼれしていただろう一撃が、分厚い甲殻の縁を浅くだが確かに切り裂き、緑色の粘液を迸らせていた。
「切れる…!」
驚愕と、ほんのわずかな希望。しかし、感傷に浸る暇はない。 攻撃を受けた石噛み虫が、複眼をギョロリとカイに向け、巨大な顎をカシャリカシャリと鳴らしながら突進してくる。
カイは咄嗟に身を翻すが、その巨体から繰り出される体当たりを避けきれず、肩から弾き飛ばされた。
「ぐっ…!」
地面を転がり、背中を強かに打ち付ける。レナータが新調してくれた革鎧が、骨が砕ける最悪の事態だけは防いでくれた。だが、衝撃で呼吸が一瞬止まり、視界が白く点滅する。死角から、別の個体が低い姿勢で迫ってくる気配。 ――もう、だめか。 諦めが脳裏をよぎった、その瞬間。
「カイ、意識を集中しろ!視覚も音も忘れろ!律動を聞け!」
鼓膜を突き破るように、ベルクトの鋭い声が響いた。
カイは、その声だけを頼りに、霞む意識を無理やり引き戻す。息を吸い、吐く。恐怖も、痛みも、吐き気も、全てを意識の外へ追いやる。
すると、目の前の世界が、まるで薄いヴェールを一枚剥がしたかのように変質した。陽光に満ちた色彩が褪せ、世界はモノクロームの濃淡に沈む。だが、その中で、敵である石噛み虫たちの動きだけが、禍々しい赤い軌跡となって網膜に焼き付いた。硬い甲殻を繋ぐ関節、呼吸孔のある腹部、そして力の流れが滞る僅かな亀裂。それらが、まるで夜空の星座のように、淡い青白い輝きを放って、カイの網膜に浮かび上がった。
「ここだ…!」
カイは逆手に持った長剣を、地面に転がったままの姿勢から、渾身の力で突き上げた。
ズブリ、と、これまでとは全く違う、生々しく、吸い付くような手応えがあった。剣は根元まで深く腹部に突き刺さり、石噛み虫は甲高い断末魔を上げて巨体を痙攣させた。
休む間もなく、別の個体が突進してくる。
カイは長剣を引き抜く暇がないと判断し、即座に腰の短剣を抜いてその突撃を受け流した。
その瞬間、柄に埋め込まれた「星詠みの涙」が、ピリリと肌を刺すような、鋭い冷たさを放った。
――危険だ!
カイは直感に従い、咄嗟に身を投げ出すように横へ転がった。直後、今まで頭があった場所を、背後から迫っていた別の個体の巨大な顎が空を切る。
紙一重。カイは汗と泥にまみれながら体勢を立て直し、無防備な背中を晒した石噛み虫の、複数の複眼が寄り集まった眉間へと、今度は短剣を力任せに突き立てた。 グシャリ、という鈍い感触。宝石が埋め込まれた柄頭まで深くめり込み、石噛み虫はピクリとも動かなくなった。
戦いは続く。
カイは初歩的な火の魔法で牽制し、レナータが魂を込めた二振りの剣を巧みに使い分けながら、奇跡的な連携で死線を紡いでいく。新調された革鎧が、敵の体当たりや飛んでくる瓦礫から彼の身体を守った。
ベルクトの的確な指示が、戦場の喧騒の中でもクリアに聞こえた。
「カイ、右の個体、三歩後に跳躍するぞ!」
「一体に固執するな、常に全体の動きを読め!」
その声に導かれるように、カイは次第に戦いのリズムを掴んでいった。恐怖はまだあった。だが、それ以上に、生き延びることへの渇望と、目の前の敵を倒すことへの集中が、彼の全身を支配していた。
一体、また一体と、カイは無我夢中で戦い続けた。やがて、最後の石噛み虫の動きが止まった時、カイは肩で大きく息をしながら、その場に膝をついた。
全身は滝のような汗に濡れ、心臓はまだ激しく高鳴っている。
戦いの興奮が冷めやらぬまま、カイは荒い息を整えようと顔を上げた。夕暮れの光が、転がる石噛み虫の亡骸を不気味に照らし出している。その数を無意識に数え、彼ははっとした。自分が斬り伏せたと認識している数よりも、明らかに多くの死骸がそこにはあった。
カイが捌ききれない、あるいは気づきさえしなかったであろう攻撃は、彼が意識しないうちに、ベルクトによって軌道を逸らされていたのだ。
それは死闘であると同時に、ベルクトの掌の上で演じられた、あまりに過酷な実地訓練でもあった。その事実に気づいたカイの胸に、一瞬、自らの未熟さに対する苦いものが込み上げた。
だが、すぐにその感情は霧散した。
カイは己の掌を見つめた。血と泥に汚れ、まだ微かに震えている。
だが、この手で戦い、生き延びた。初めて、自分の力で誰かを守りきった。その事実だけが、揺るぎない熱を持って、カイの胸の内を満たしていた。




