第39話 ジーノ・オルフェイ編 5
ジーノは大きな紙袋を片腕に提げ、クンスト・トーキョー中央駅から数駅離れた、どこか時間の流れから取り残されたような静かな区画に立っていた。
目の前にあるのは、街の一角にぽっかりと開いた異界の穴――そんな印象を与える建物だった。
真っ白な立方体。
あまりにも整いすぎた直方体の輪郭は、かえって不自然だった。巨大な消しゴムを地面に突き立てたような、無機質な佇まい。壁面には窓ひとつなく、色も装飾もない。
人の気配すら感じさせない白い壁は、まるで外からの侵入を拒むかのように、夕暮れの街にそびえていた。
その中央に、ぽつんと取り付けられているのがインターフォンだった。
この建物と外界をつなぐものは、それだけ。
ジーノはしばらく白い壁を見上げていた。
夕陽が壁面に淡いオレンジ色の影を落としている。それさえも、白一色の建物に呑み込まれてしまいそうだった。
やがてジーノは一歩近づき、迷いなくインターフォンのボタンを押した。
小さな作動音のあと、スピーカーから甲高い声が弾けた。
「はーい、どなたさま……あっ! ジーノだーっ!」
聞き慣れた声に、ジーノの口元が緩む。
「よぉ、エチカ。差し入れ持ってきたぜ」
「ほんとー!? わーいっ! あ、ちょっと待っててね~。今、“罠”解除するから~!」
その直後。
スピーカーの向こうから、金属の軋む音が響いた。
ギギギ……。
続いて、ピンッと弾けるバネの音。
ビープ音。
ガチャガチャ、バタン、チリリリリ……。
「よいしょ、うんしょ、ん~~~しょっと!」
何かを解除しているらしい。
しばらくすると、ようやく声が返ってきた。
「ふぅ! オッケー、もう大丈夫だよ、ジーノ!」
声と同時に、真っ白な壁の一部が音もなく横へ滑った。
そこに現れたのは、最初から存在していたかのような入口だった。
白く照らされた無人の回廊が、建物の奥へと伸びている。
ジーノは開いた入口を見上げ、肩をすくめた。
「ったく。この家、相変わらず要塞だな。おまけに歓迎のされ方が物騒すぎる」
ぼやきながらも、その口元には笑みが浮かんでいる。
紙袋の取っ手を持ち直し、ジーノは白い回廊へ足を踏み入れた。
コツ、コツ、と足音が響く。
それもすぐに、機械仕掛けの静寂へ吸い込まれていった。
白一色の無機質な回廊を進んでいくと、不意に、そこだけ異物のようなものが現れた。
障子張りの戸だ。
無彩色の空間に、そこだけ誰かの趣味を無理やり押し込んだように佇んでいる。
見慣れた光景のはずなのに、ジーノは思わず足を止めた。
「ほんと、統一感って概念が迷子だな」
ぼやきながら、ためらいもなく戸を開け放つ。
その先に広がっていたのは、十二畳ほどの和室だった。
畳の香り。
そして、ふわりと漂う上品なお香の匂い。
部屋の中央には夏なのに炬燵が置かれ、その上には木目の美しい丸皿。皿の上には、ひと口サイズに切り分けられたバームクーヘンが整然と並んでいる。
「おっ」
思わずジーノの足が緩む。
その炬燵の向こうには、小さな人影がちょこんと座っていた。
淡い緑色のショートボブ。
夏みかん色の派手な白衣。
その袖口からは、銀色の小さなトングが覗いている。
彼女――エチカは、目の前のバームクーヘンに夢中だった。
だが、ジーノの姿を認めた瞬間。
「わぁっ! ジーノだ、ジーノ来たぁー!」
ぱっと顔を輝かせる。
椅子のバネのようにぴょんと立ち上がり、トングを炬燵の上へ放り出すと、そのままジーノへ駆け寄ろうとする。
「落ち着けって」
ジーノは慌てて片手を上げた。
それでもエチカの勢いは止まらない。
目の前まで来たところで、ジーノはその頭をくしゃっと撫でた。
「ほら。お前なぁ、せめて手ェ拭いてから来いよ。べたべたの手で抱きつかれたら、たまったもんじゃねぇっての」
「えへへ~。だってジーノ、思ったより早かったんだもん!」
エチカは笑いながら、その場でぴょんと跳ねる。
「ほら、この前の礼。わざわざ持ってきてやったぞ」
ジーノは炬燵の横へ腰を下ろすと、大きな紙袋をどさりと置いた。
袋の口から、香ばしい匂いがふわりと漂う。
エチカの鼻が、ぴくりと動いた。
「こ、これはもしや……!」
すぐさま紙袋へ身を乗り出す。
がさごそと中を探り、やがて両手で慎重に取り出したのは、淡いクリーム色の液体が入った小瓶だった。
ラベルには、丸みを帯びた手書きの文字で――
『搾りたて アーモンドミルク』
と書かれている。
「わああっ! アーモンドミルクだっ! しかも搾りたてのやつぅ~!」
エチカは小瓶を胸に抱えた。
そのまま頬を瓶にすりすりと寄せる。
「ふふふ~ん♪ バームクーヘンを用意しといて大正解だったぁ~! やっぱりジーノ、わたしのこと完璧に分かってますなぁ~!」
「お前が喜ぶのなんて、大抵それか、甘いモンのどっちかだろ」
ジーノは吹き出しながら首を振った。
「えっへん。好きなものは好きなんだからっ!」
エチカが胸を張る。
ジーノは手をひらひらさせた。
「はいはい」
「ではっ!」
エチカは小瓶を高々と掲げた。
「我が手でミルクを注いで進ぜよう!」
「なんでそんな偉そうなんだよ」
エチカは得意げな顔で小瓶のキャップをぱこっと開けた。
「はいはい、ご苦労さん」
ジーノが炬燵の上にあったマグカップを二つ差し出す。
エチカは姿勢を正し、こぼさないよう慎重に傾けた。
トクトク、トクトク――。
白い液体がカップへ注がれる。
ふわりと広がる香ばしい匂いに、和室の空気まで柔らかくなったようだった。
「よしっ、完璧に注げましたっ! ね、ジーノ!」
「ああ。文句なしだな」
「いただきまーすっ!」
エチカは待ちきれない様子でバームクーヘンをひとつ摘まむと、ぱくりと口へ放り込んだ。
もぐもぐと頬を動かしながら、何度もうなずく。
続けてアーモンドミルクの入ったカップを両手で包み、ごくごくと飲み干した。
「ぷはぁーっ! うまっ! もう一杯!」
空になったマグカップが、ジーノの目の前へ突き出される。
ジーノはそれを見て、目を細めた。
「……なんだよ、そのノリ」
「この前読んだ小説に出てきたの!」
エチカは胸を張る。
「真似してみたらね、なんか楽しくなっちゃった!」
そう言って、またバームクーヘンへ手を伸ばす。
ちぎったひと切れを頬張りながら、エチカはにこにこと笑っていた。




