第38話 ジーノ・オルフェイ編 4
オルノスのあの言葉がなければ、今こうして仲間に囲まれ、笑われながら叱られることもなかっただろう。
ジーノはゆっくりと息を吸い、吐いた。
「そうっすね」
肩の力を抜き、頭の後ろで手を組む。ばつが悪そうに口元を歪めたあと、背筋を伸ばした拍子に、ぽきりと小さく音が鳴った。
そのまま視線をオルノスへ向ける。
「なあ、社長。もしかしてドレス、もう用意してたりします?」
オルノスは唇の端をわずかに上げ、目を細めた。
「もちろん。あなたのサイズで、完璧なものを」
「……だろうと思った」
ジーノは天井を仰ぎ、長いため息を吐いた。
やがて腹を括ったように顔を戻す。
「で、その“素人モデル”ってのは、今日ここに来てるんすか?」
ソファの背にもたれたまま尋ねると、オルノスは手帳をぱたんと閉じた。
「いいえ。顔合わせは来週の予定よ」
「はぁああ!?」
ジーノが勢いよく身を起こす。
「来週って、もうギリギリじゃないっすか!」
両手を広げ、まくしたてる。
「ショーまで時間ないでしょ? それで素人って、育てる時間も練習する時間もロクにないじゃないすか! マジで正気っすか、社長!」
オルノスは、目の前で騒ぐジーノをよそに、紅茶をゆっくりと口へ運んだ。
カップをソーサーへ戻すと、静かに笑う。
「大丈夫。事情があるの」
その瞳が、わずかに遠くを見た。
「モデルとしては素人かもしれない。でも、“舞台の上に立つ”という意味では――その子、ある意味では筋金入りの玄人よ」
「はあ?」
ジーノは瞬きを繰り返した。
「なにそれ……舞台って、演劇とかってことっすか?」
返事はない。
ただ、オルノスの口元に意味ありげな笑みが浮かんでいる。
ジーノはしばらく彼女を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「ま、あんたが“いける”って言うなら、信じるわ」
肩をすくめる。
「見る目があるのは認めてるし。来週、そいつに会えるの、楽しみにしときますよ」
そう言って立ち上がると、軽く手を振って社長室を出た。
ドアが閉まる。
廊下には、窓から差し込む夕暮れの光が伸びていた。逆光に目を細めながら、ジーノは無意識に青い髪をかき上げる。
ポケットに手を突っ込み、スニーカーの底でタイルを軽く鳴らしながら歩いていく。
そのすぐ後ろを、リナが弾むような足取りで追いかけてきた。
「もしかしたら、ジーノのタイプかもしれないわよ? その“新人ちゃん”」
リナがいたずらっぽく笑い、ジーノの肩を小突く。
「だといいな」
ジーノは前を向いたまま答えた。
口元には、ほんのわずかに笑みが残っている。
「ねぇ、ジーノ。このあとどうするの? 一杯くらい、付き合わない?」
「あー、今日はさ」
ジーノが足を緩める。
「ちょっと、先約があるんだ」
「へえ」
リナは歩調を変えずに、横目でジーノを見る。
「彼女? それとも……彼氏だったりして?」
「残念。どっちでもない」
ジーノは苦笑して肩をすくめた。
ビルのロビーを抜けると、夜の街が二人を迎えた。
ネオンを映した風が、リナの明るい髪をふわりと揺らす。ヒールの音がアスファルトを軽く叩き、行き交う人々の話し声や車の音に混ざっていく。
「じゃあ、誰?」
リナの問いに、ジーノはすぐには答えなかった。
高層ビルの隙間へ目を向ける。
そこに浮かぶ月は、街の明かりに滲んでいた。
「クンスト・トーキョーに流れ着く前からの腐れ縁さ」
それだけ言って、ジーノは視線を戻す。
リナは何も聞き返さなかった。
少しだけ間を置いて、彼の背中を軽く叩く。
「そっか。じゃあ、楽しんできなよ」
「あぁ」
リナは片手を上げ、そのまま人の流れへと歩いていく。
ヒールの音が遠ざかり、やがて街のざわめきに溶けていった。
ジーノはその背中をしばらく見送っていた。
やがて小さく息を吐き、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を指先でなぞる。
表示された名前を見て、ジーノは口元をわずかに緩めた。
夜風がジャケットの裾を揺らす。
街の音が、途切れることなく押し寄せてくる。
「こっちもこっちで、気合い入れねぇとな」
スマートフォンをポケットへ戻す。
ジーノは踵を返した。
ネオンが照らす夜の街を、今度は一人で歩いていく。
その足取りに、迷いはなかった。




