第36話 ジーノ・オルフェイ編 2
その言葉に、ジーノの口元がようやく緩んだ。
唇の端を引きつらせた、情けない苦笑い。それでも、張りつめていた肩からは、ほんの少し力が抜けていた。
確かに、ジーノは素行が悪い。思いつきで行動し、上からしょっちゅう叱られる厄介者だ。
だが、彼が向き合ってきたのは、いつだってジーノ自身より厄介で、理不尽な現実だった。
そんな無鉄砲さと底抜けの明るさに、救われてきた人間は、イリアに数えきれないほどいる。
「ジーノを辞めさせたりはしないわよ。みんな、安心しなさい」
オルノスの低く落ち着いた声が響いた。
張りつめていた空気が、ふっとほどける。
「よかった……」
あちこちから小さな声が漏れ、何人もの肩が同時に落ちた。
ジーノも膝から力が抜けかけ、危うくその場にへたり込みそうになった――そのとき。
「でも、ちゃんと“落とし前”はつけてもらうわよ、ジーノ」
ぴたり。
緩みかけた空気が、再び凍りついた。
オルノスの目が細くなる。
「……落とし前って、何スか?」
ジーノの肩が、ひくりと跳ねた。
「雑用? 掃除? あ、あと念のため言っときますけど、金はマジでないっすからね。ドレス代の弁償とか言われても――」
両手をぶんぶん振る。
「俺、ほんっとに持ってないっすから!」
周囲から、くすくすと笑い声が漏れた。
オルノスの肩も、わずかに揺れる。
「あなたに金銭を請求するなんて、時間の無駄よ。どうせ持ってないんだから」
「っ、ひでぇ」
ジーノは胸を押さえ、その場でがっくりと項垂れた。
笑い声が広がる。
オルノスはそんなジーノを一瞥すると、声の調子を少しだけ落とした。
「“落とし前”っていうのはね。ただ罰を与えるって意味じゃないわ」
ジーノが顔を上げる。
「壊したものの代わりに、あなたにしかできないものを差し出す。責任を、あなた自身の力で形にして返すの。それでチャラよ」
「……わかったような、わかんないような」
ジーノは首をかしげた。
「いいの。分からなくても」
オルノスが微笑む。
「今から話すことだから」
「……」
ジーノの肩が、ぴくりと跳ねた。
「それ、やっぱ一番こえぇやつじゃん!」
どっと笑いが起こる。
ジーノは頭を掻きながら、その輪の中で苦笑した。
「じゃあ、俺、何をすればいいんすか?」
オルノスは静かに一歩、前へ出た。
長い黒髪が肩の後ろで揺れる。
「今回のファッションショーで――私がスカウトした新人モデルと一緒に、ランウェイを歩いてもらうわ」
「え、それだけっすか?」
ジーノの顔がぱっと明るくなる。
「そんくらい、ぜんっぜん余裕っすよ。大歓迎、大歓迎!」
胸を張り、軽く肩をすくめる。
だが。
「ジーノがウェディングドレスを着てね」
「…………は?」
ジーノの笑顔が止まった。
数秒。
瞬きが一つ。
二つ。
三つ。
「……え?」
室内が静まり返る。
ようやく意味を理解した瞬間、ジーノの顔から血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!?」
青い髪をぶんぶん振り乱す。
「あれは! あれは完全にノリだったじゃないですか! 悪ノリ! リナたちが無理やり! 俺、好きで着たわけじゃねぇっすからね!? マジで!」
オルノスは答えない。
ただ、ポケットからスマートフォンを取り出した。
スッ。
画面を操作する。
そして無言のまま、ジーノの目の前へ差し出した。
――そこに映っていたのは。
純白のウェディングドレスを堂々と着こなす、ジーノだった。
凛々しい横顔。
キメ顔でのウインク。
腰に手を当てたモデル顔負けのポージング。
挙げ句の果てには、満面の笑みでピースサイン。
その隣では、リナたちが満面の笑みでポーズを決めている。
「…………」
ジーノの口が、ゆっくりと開いた。
「う、そ、だろ……?」
ゆっくりと横を向く。
リナが両手を胸の前で合わせ、口だけを動かした。
『ごめん』
「お前ぇぇぇ!」
ジーノの絶叫が社長室に響き渡った。
リナは一歩、二歩と後ずさる。
「だって……似合ってたんだもん」
笑いをこらえながら、さらに一歩。
「しかも、データ消してって言われなかったし」
「言われなくても分かれよ!!」
ジーノの悲鳴に、社長室が再び笑いに包まれた。
肩を震わせる者。
口元を押さえる者。
完全に吹き出してしまう者。
オルノスまで、口元を指先で隠している。
やがて彼女は小さく息を吐き、ジーノを見た。
「観念なさい」
「……マジでやるんすか?」
「どうせやるなら、最高に美しく着こなして」
オルノスの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「あなたにしかできない“落とし前”、見せてちょうだい」
「マジで、俺のモデル人生、どこで道間違えたんだろうな……」
ジーノは頭をがしがしとかいた。
「あっ! それに、あいつらにもうチケット渡しちまった!」
天井を仰ぐ。
オルノスは、そんな彼を静かに見つめていた。
「私は、あなたが道を踏み外さないように、ずっと助言してきたつもりよ」
「……」
その一言で、ジーノの動きが止まった。
先ほどまで笑い声に満ちていた社長室が、ふっと静かになる。
ジーノは何か言おうと口を開いた。
だが、言葉が出てこない。
やがて唇を引き結び、ゆっくりと視線を落とした。
青い前髪の隙間から覗く瞳が、わずかに揺れる。
その奥に――遠い日の光景が、ふと浮かんだ。




