第35話 ジーノ・オルフェイ編 1
クンスト・トーキョーのオフィス街にそびえ立つ、鋭利な刃を思わせる高層ビル。鏡面ガラスが陽光を弾き、周囲のビル群を切り裂くように天へ伸びている。
その最上階――静寂と秩序に満たされた、まるで美術館のように洗練された空間の中央で、一人の男が床に額をつけていた。
鮮やかな青い髪は、電流でも走ったかのように逆立っている。身にまとっているのは、真緑のジャケットにピンクのライン、ラメの入った黒いパンツ。社長室という場には、あまりにも派手な出で立ちだった。
その男――ジーノ・オルフェイの前に、一人の女性が立っている。
長く艶やかな黒髪は、絹糸のように細い紐で高く結い上げられ、額の前髪はきっちりと七三に分けられている。一本の乱れもない。
軍人を思わせる規律と威厳を漂わせながらも、均整の取れた八頭身の身体は彫刻のように美しい。
クンスト・トーキョーで、一番有名なファッションブランド『イリア』の社長――オルノス。
彼女は腕を組み、肩幅に開いた両足で床を踏みしめ、ジーノを見下ろしていた。
その視線が細くなる。
カツリ。
ヒールが床を叩いた。
たった一音。それだけで、広い室内に張りつめた空気が満ちる。
オルノスは、ふう、と長く息を吐いた。
「ジーノ。アーカイブの任務だったとはいえ、仮縫いのドレス姿で現場に赴くなんて……非常識にもほどがあるわ」
「ほんと、すんません!」
ジーノは慌てて顔を上げ、胸の前で両手を合わせた。
「でも、あれは俺の……可愛い後輩がピンチだったんすよ! どうしても放っておけなかったんだ!」
「それに――」
オルノスの視線が、床へ落ちる。
「見事なまでにボロボロね」
細い指が、床の一点を示した。
そこに転がっているのは、純白のドレスだった。
袖は無惨に裂け、裾には煤と泥がこびりついている。かつてはイリアの職人たちが一針一針、丹念に仕立てた一着だ。今となっては、見る影もない。
ジーノの口元が、わずかに引きつった。
「……はい」
オルノスは目を閉じ、長い指で眉間を押さえた。
「来月、年に一度のイリアのショーがあるでしょう」
指を離し、再びジーノを見る。
「本番で使わないとはいえ、あれが準備の最終段階にあったことくらい、あなたも分かっていたはずよね?」
「……まあ、それは」
ジーノの声が小さくなる。
オルノスはタブレットへ目を落とした。
「あなたの人情は、他の誰にも真似できないわ」
指先が画面を滑る。
「でもね、ジーノ。少しは、自分以外の人たちのことも考えて動いて。あなたが突然いなくなって、現場のモデルも、デザイナーも、縫製チームも大混乱だったのよ」
ジーノは唇を噛み、視線を落とした。
「……悪かった」
いつもの軽口は出てこない。
しばらくして、オルノスの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「まあ、あなたのそういう無茶は、今に始まったことじゃないけれど」
タブレットを片手に持ったまま、肩をすくめる。
「今回は私がなんとかする。でも、次はないわよ」
そこで一度、言葉を切った。
「――分かった?」
ジーノは喉を鳴らし、深々と頭を下げた。
「おう。ありがとな」
オルノスは答えず、ただその背中を見つめていた。
そのときだった。
社長室の扉が勢いよく開いた。
バンッ!
「社長! ジーノを許してあげてください!」
真っ先に飛び込んできたのは、イリア専属の人気モデル、リナだった。
ヒールを鳴らしながらジーノの前まで駆け寄ると、両腕を大きく広げる。
「私たちが話します!」
「え?」
ジーノが目を丸くする。
その背後から、さらにスタッフたちが雪崩れ込んできた。
「お、お願いします、社長!」
まだ若い事務員のアキが、顔を真っ赤にして頭を下げる。
「この前、僕が夜道でカツアゲされそうになったとき、助けてくれたんです! すっごく怖かったけど、ジーノさんが間に入ってくれて……!」
「そうそう!」
別のスタッフが声を上げた。
「夜中まで一緒に衣装の直しをしてくれたんですよ。私が泣いてたときも」
「撮影が止まったとき、真っ先に飛んできたのもジーノくんだったよ」
「休憩所で新人の面倒も見てたしな。あいつ、ああ見えて結構マメなんだよ」
次から次へと声が飛ぶ。
デザイナー、メイクアップアーティスト、縫製スタッフ――いつの間にか、社長室は人でいっぱいになっていた。
「ちょ、ちょっと待てって!」
ジーノは人波の中心で両手を振る。
「お前ら、なんで一斉に来てんのさ!」
返ってくるのは笑い声ばかりだ。
「だってジーノくん、一人で怒られるの可哀想じゃん!」
「そうそう!」
「社長だって、ジーノだけが悪いと思ってるわけじゃないですよね?」
オルノスは、しばらく何も言わずに彼らを眺めていた。
やがて、額に手を当てる。
「……あなたたちまで来るとは思わなかったわ」
その声に、ほんの少しだけ力が抜けていた。
「だって、ジーノさんは――」
リナが振り返り、ジーノを見る。
「こういう人ですから」
「どういう人だよ、それ」
ジーノが眉をひそめる。
すると、アキが吹き出した。
「いや、どう考えてもそうでしょう!」
「仕事中に仮縫いドレス着て事件現場に突っ込むんですよ?」
「ヤバさの金メダルだよ!」
「うっ……それはまあ、否定できねぇ!」
ドッと笑いが起こった。
数分前まで張りつめていた空気が、嘘のようにほどけていく。
ジーノもつられて笑いながら、青く逆立った髪をぽりぽりとかいた。
その様子を見ていたオルノスは、ゆっくりと肩の力を抜いた。
そして、小さく息を吐く。
「ジーノ」
「ん?」
「あなたって、本当に――」
オルノスの口元がわずかに緩んだ。
「どうしようもないくらい、厄介な人気者ね」
「それ、褒めてんの?」
「さあ?」
ジーノが苦笑すると、また室内に笑い声が広がった。




