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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子
橄欖色のアーカイブ ー日常編ー

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第34話 東郷武蔵編 8

 壁に掛けられた時計は、まだ正午を少し回ったところだった。

 新聞は、とっくに一通り目を通している。

 それでも東郷は、もう一度一面からページをめくり直した。見落としがないか、気になる記事がないか。だが、二度目ともなれば、さすがに目を引くものはない。

 最後のページまでめくり終える。

 東郷は新聞を膝に置いた。


「……暇だな」


 ぽつりと呟く。

 普段なら、この時間にも何かしら仕事が入っている。

 書類の確認。

 報告書への目通し。

 才原から回ってくる、似たような書類の束。

 内容が想像できるような定型仕事には、「面倒だ」と文句を言うこともある。だが、必要と判断した仕事なら話は別だ。

 一度腰を上げれば早い。

 状況を確認し、優先順位を決め、必要なものだけを拾って片づける。

 迷っている暇があるなら、手を動かす。

 それが東郷にとっては、ごく当たり前のことだった。

 戦前から染みついた性分なのだろう。

 混乱の中で何を先にすべきか。

 限られた時間と物資で、どこまで動けるか。

 そうやって身についた癖は、百年以上経った今でも抜けていない。

 だから何もすることがない、という状況のほうが、東郷には妙に落ち着かなかった。


「軽く、昼飯でも食べるか」


 東郷は立ち上がった。

 新聞をテーブルへ置き、キッチンへ向かう。

 冷蔵庫を開けた。


「……」


 広い。

 だが、中身は驚くほど少ない。

 棚に並んでいるのは、要冷蔵の調味料が数本と、パックに入った卵くらいだった。

 東郷は卵へ目をやる。

 殻には管理用のラベルが貼られていた。


「……あと一週間は持つな」


 ラベルを確認すると、卵を二つ取り出した。

 続けて白だしを取り出し、調理台へ並べる。

 今度は冷凍庫を開けた。

 中には、ラップに包まれたご飯が二膳分。

 先週、王の命で派遣されてきた家政婦が置いていったものだった。


 ――ご飯、冷凍しておきましたから。時間があるときに、ちゃんと食べてくださいね。


 あのときの声が、ふと蘇る。

 東郷は冷凍ご飯を一つ取り出した。

 自炊ができないわけではない。

 ただ、食事はいつも後回しになった。

 仕事があれば仕事を優先する。

 忙しければ、食べなくても何とかなる。

 それで済ませてきた結果が、この冷蔵庫だ。


「……さて」


 鍋に水を注ぐ。

 白だしと醤油を目分量で加え、コンロに火をつけた。

 その間に冷凍ご飯を電子レンジへ入れ、卵をボウルに割り入れる。

 箸で溶きほぐす。

 レンジが鳴った。

 温まったご飯を鍋へ入れる。

 出汁がふつふつと沸き、湯気が立ち上った。

 東郷は鍋の中を一度かき混ぜる。

 ご飯が出汁を吸い始めたところで、溶いた卵を細く流し込んだ。

 蓋をする。

 火を止める。

 あとは待つだけだ。


 数十秒。


 キッチンには、鍋の余熱が残した小さな音だけが響いていた。

 東郷は蓋を開けた。

 白い湯気がふわりと立ち上る。

 その向こうに、卵でとじられた雑炊が見えた。


「胡椒でも振るか」


 ネギでもあれば、もう少し見栄えはしただろう。

 だが、東郷の冷蔵庫にそんなものがあるはずもない。

 雑炊を器によそい、胡椒を少し振る。

 スプーンを添え、テーブルへ運んだ。

 椅子に腰を下ろす。

 スプーンですくい、一口。

 柔らかな米が舌の上でほどけた。

 出汁と卵の味が、ゆっくりと広がる。

 東郷の手が止まった。


 ――この味。


 どこかで覚えている。

 遠い記憶の底から、ひとつの夜が浮かび上がった。


 戦時中。

 食料が底をつきかけた夜だった。

 兄が作ってくれた雑炊も、こんな味だった。

 刻んだ大根で量を増やし、残っていた米を水で伸ばす。

 時には、冷めた鶏肉が少しだけ入っていた。

 それでも兄は、鍋をかき混ぜながら笑っていた。


 ――いざというときは、ご飯と卵と水があれば何とかなる。


 あの頃は、それだけで十分だった。

 東郷はスプーンを持ったまま、しばらく器を見つめていた。


「……兄貴が作ったほうが、うまかったな」


 口元だけが、ほんの少し緩む。

 それ以上は何も言わず、東郷は雑炊を食べ進めた。

 最後の一口を飲み込み、器を持って立ち上がる。

 シンクへ運び、水に浸した。

 蛇口を閉める。

 歯を磨きながら時計を見る。

 まだ、出かけるには早い。

 東郷は洗面所を出ると、肩を回した。


「少しだけ、寝ておくか」


 寝室へ向かう。

 布団に身体を沈めると、思っていたよりも早く瞼が重くなった。

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