第33話 東郷武蔵編 7
マグカップを片手に、東郷は再び椅子へ腰を下ろした。
新聞をめくる指先は、先ほどより幾分ゆるんでいる。
――着信音。
電子音が、静かな部屋を切り裂いた。
「……またか」
東郷は目を細め、テーブルの上のスマートフォンを手に取る。
だが、画面に表示されていた名前は――「アギール」。
指が止まった。
この女から電話が来ることは、そう多くない。
東郷は一度だけ画面を見直し、通話ボタンを押した。
「東郷だ」
「アギールです。休暇中に申し訳ありません」
返ってきたのは、静かで張りのある声だった。
謝罪の言葉にしては、妙に温度がない。
東郷はそれを指摘するでもなく、マグカップをテーブルへ置いた。
「今日、キラ様は久々の休暇ということで、お忍びで城下町へ向かわれるそうです」
「ああ、知っている。さっき本人から電話があった。夕飯の誘いまでされてな」
電話の向こうで、ほんの一瞬だけ間が空いた。
「そうですか」
短い返答。
「であれば、むしろ好都合です」
「何がだ?」
「本来、本日は私がキラ様の護衛にあたる予定でした。ですが――夕方に、どうしても外せない用件が入ってしまいまして」
そこでアギールは一度言葉を切った。
「可能であれば、その後を東郷に引き継いでいただきたく思います」
「要するに、夕飯ついでに護衛を頼むってことだな」
「その通りです」
東郷の口元が、わずかに歪んだ。
「構わない。元々、そのつもりだったからな」
「……ありがとうございます」
今度の声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
東郷は眉を上げる。
「珍しいな。お前が俺に礼を言うなんて」
電話の向こうが、また黙った。
やがて、アギールが小さく息を吐く。
「貴女も、王も働きすぎです。それは承知しています」
いつもの硬い声だった。
だが、言葉を選ぶように、次の一文まで少し間があった。
「だから、こうしてまた頼みごとをするのは……本当は気が引けるんです」
東郷は何も言わず、マグカップの縁を指でなぞった。
「忙しいのは、お互い様だろ」
それだけだった。
けれど、アギールには十分だったらしい。
「よろしくお願いいたします」
声が一段、低くなった。
東郷は時計へ目をやる。
「キラとは十八時ごろ、城下町の噴水広場で会う予定だ」
「キラ“様”です」
即座に返ってきた。
「……」
東郷は天井を見上げた。
「あぁ、“様”な。ありがたく訂正させてもらうよ」
「いい加減このやりとりも飽きました」
アギールの声に、わずかな変化が混じった。
東郷はそれを聞き逃さなかったが、あえて何も言わなかった。
アギール。
幼い頃から王家に仕える家系に生まれ、十五歳の春には正式にキラ直属の従者となった女だ。
両親も祖父母も、そのさらに前の世代も、クンストン王家に忠誠を尽くしてきた。
彼女にとって、王に仕えることは仕事というより、生まれたときから身近にあったものだった。
十五歳で初めてキラの前に立った日も、今でも鮮明に覚えている。
身を正し、胸の内で誓いを立て、玉座の前に跪いた。
そんな彼女に、キラは笑って言った。
――「よろしく、アギール」
あまりにも美しい声だった。
以来、アギールは王の傍を離れなかった。
戦の遠征。
外交の場。
宮中での細かな采配。
キラの行く先には、いつも彼女の姿があった。
そして、そんな日々の中で出会ったのが東郷だった。
初めて顔を合わせたのは、キラの執務室。
東郷は王を前にしても、敬称すら使わなかった。
「キラ、それくらい自分でやれ」
そんな言葉を平然と口にする。
――なんて無礼な女なのだ。
当時のアギールは、そう思った。
だが、キラは怒るどころか笑っていた。
まるで、旧知の友人を相手にするように。
王にあれほど遠慮なく物を言う人間を、アギールはそれまで見たことがなかった。
そして、もう一つ。
キラがその女を、心から信頼していることにも気づいた。
だからこそ、アギールにとって東郷は次第に無視できない存在になっていった。
「それでは、貴女がキラ様と合流したのを確認次第、私は次の任務に移ります」
「了解した。任せておけ」
東郷の返事には、余計な言葉がなかった。
「それでは、失礼します」
ぷつり。
通話が切れた。
耳元に戻ってきた静寂の中で、東郷はスマートフォンを伏せるようにテーブルへ置いた。
「まったく」
マグカップを手に取る。
「俺を何だと思ってるんだか」
こぼれた呟きに、東郷自身が小さく鼻を鳴らした。
キラの護衛。
どうせなら、最初からそう言ってくれればいいものを。
東郷は椅子へ深く腰を下ろし、マグカップを指先でゆっくり回した。
「さて、どうするか……」
視線が天井へ向く。
十八時。
城下町の噴水広場。
その頃には、キラがまた何か騒ぎを起こしているかもしれない。
東郷は目を閉じた。
「……先が思いやられるな」




