第32話 東郷武蔵編 6
東郷は片手でスマートフォンを取り上げた。
指先が通話ボタンに触れる――その直前で、ぴたりと止まる。
画面に表示された「キラ」の文字を見つめたまま、東郷は眉間を指で軽く揉んだ。
どうせ仕事ではない。
キラからの私的な連絡など、急ぎでなければ大抵ろくでもない。しかも、あの男の場合――「急ぎ」と「ろくでもない」が同居していることすら珍しくなかった。
それでも、最悪の可能性だけは頭をよぎる。
長年の習慣は、休日だからといって簡単には抜けない。
東郷は小さく息を吐き、通話ボタンを押した。
「……東郷だ」
「私だ! キラだ!」
耳元に飛び込んできたのは、予想どおりの快活な声だった。
東郷の眉が、ぴくりと動く。
膝に置いていた新聞をテーブルへ戻し、背もたれに身体を預けた。
「俺は今日、休暇だぞ。何かあったのか?」
「あぁ、そうだ!」
「……」
間髪入れずに返ってきた。
東郷は目を閉じる。
「私も今日は久しぶりの休みなんだ。だから遊ぼう!」
「……」
今度こそ、言葉が出てこなかった。
地球の王が、電話越しに「遊ぼう」と言っている。
東郷は額に手を当てた。
指先で眉間を押さえ、しばらく黙る。
電話の向こうでは、キラが何か言いかけている気配がした。
「東郷、そんなに黙らないでくれ。寂しいだろう?」
「今日は休むと決めてる」
「そうか……」
声が一段落ちた。
東郷は天井を見上げる。
ほんの数秒前まであれほど元気だった声が、露骨にしぼんでいる。
「……夕飯くらいなら、付き合ってやってもいい」
「本当か!?」
声が一気に跳ね上がった。
「ただし、お前の奢りだ」
「もちろん私が奢らせてもらおう! ポケットマネーでな!」
「当たり前だ」
「では十八時、城下町の噴水広場で待ち合わせだ! 私はそれまで、視察という名の遊びを満喫してくる! 食事処も吟味しておこう! それではまたな、東郷!」
「おい、ちょっと待――」
ぷつり。
通話が切れた。
東郷は耳元からスマートフォンを離した。
しばらく画面を見つめる。
「……まったく」
スマートフォンをテーブルへ置き、東郷は眉間を揉んだ。
「また一人で城下町に行くのか。懲りないやつだ」
それでも、口元に浮かんだのは呆れだけではなかった。
出会った頃から変わらない。
キラが城外へ一人で出れば、危ないからやめろと言いたくなる。何度注意しても、本人はどこ吹く風だ。
――だが、東郷は知っている。
キラ・アステル・クンストン。
かつてこの地球を血で染めたクンストン王国の王子であり、今は地球の王として、その肩に王冠を載せている男。
王冠は軽くない。
それでもキラは、その重さから逃げることなく、今日まで背負い続けてきた。
無邪気に見えるときほど、その背後にあるものを東郷は知っている。
だからこそ――。
東郷は空になったマグカップへ目を落とした。
「……まあ、夕飯くらいならいいか」
誰に聞かせるでもなく呟き、カップを手に取る。
立ち上がったところで、小さく息を吐いた。
キッチンへ向かい、片隅に置かれた電気ケトルに水を注ぐ。
スイッチを押す。
ほどなくして、低い加熱音が静かな部屋に響き始めた。
東郷は新しいコーヒーを淹れる準備をしながら、壁時計へ目をやった。
まだ時間はある。
それでも、こういう日に限って時間は妙に早く過ぎる。
やがて湯が沸く。
立ち上る湯気に混じって、淹れたてのコーヒーの香りがふわりと広がった。
東郷はカップを手に取る。
休日の朝は、まだ終わっていない。
――夕方までは、せめて何事も起きないでくれ。
そんな願いを胸の内にしまい込み、東郷は再びリビングへ戻った。




