第31話 東郷武蔵編 5
健三郎は――凡人だった。
だが、誰よりも優しく、誰よりも真っ直ぐで、人を救おうとする意志だけは、誰よりも強かった。
だからこそ、疑問は消えない。
なぜ、ソノラは今、この時代に、アルスという少年の傍らにいるのか。
偶然の一致なのか。
それとも、運命的な巡り合わせなのか。
あるいは――もっと巨大で、目には見えない“意志”が働いているのか。
東郷は組んでいた腕を解いた。
指先が袖口をなぞる。
窓の隙間から入り込んだ風が、レースのカーテンをふわりと膨らませた。
その白い布越しに見える横顔は、いつもの鋭さをほんの少しだけ失っていた。
かつての少女の面影が、一瞬だけ重なる。
東郷は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
冷えた空気の中に、飲み残したコーヒーの香りが漂っている。
テーブルの上では、空になったマグカップが朝の光を受けていた。底に薄く残った琥珀色の跡だけが、いつの間にか過ぎた時間を示している。
東郷は窓辺から動かなかった。
カーテンの向こうには、淡い朝の光が広がっている。
街路樹の葉が風に揺れ、遠くの空では雲がゆっくりと流れていた。
どこにでもある朝の風景。
それなのに、東郷の目は、その向こう側にあるものを探るように細められていた。
まだ輪郭のない何か。
過去でも、未来でもない。
――“今”に潜んでいる何か。
東郷はしばらく、その言葉にならない違和感を追っていた。
だが、思考が一つの形を結ぶより早く――。
けたたましい電子音が、室内の静けさを切り裂いた。
スマートフォンの着信音だった。
東郷の眉が、ぴくりと動く。
テーブルの隅に置かれたスマートフォンが、細かな振動を繰り返している。硬い天板を叩く音が、やけに大きく耳に残った。
東郷は窓から視線を外し、テーブルへ目を向ける。
画面に表示された名前は――
「キラ」
その二文字を見たところで、東郷の足が止まった。
眉間に、ほんのわずかに皺が寄る。
手を伸ばせば済む。
ただ、それだけのことなのに。
東郷はすぐには手を伸ばさなかった。
鳴り続けるスマートフォンを見つめたまま、ほんの数秒、黙っている。
やがて小さく息を吐くと、東郷はテーブルへ歩み寄った。




