第30話 東郷武蔵編 4
新聞から視線を外し、東郷はソファの背へ身体を預けた。
わずかに軋んだ音が、誰もいない部屋に響く。
マグカップを両手で包む。
冷めかけた陶器の感触を掌に感じながら、東郷は目を伏せた。
脳裏に浮かんだのは、あの少年だった。
環アルス。
かつて「ナタル・エルピディア」と呼ばれた青年。
そして、その傍らにいつもいる少女――ソノラ。
アルスが東郷に語った言葉が蘇る。
――最後に会ったのは、大野木健三郎という男だった。
東郷の指が、マグの縁で止まった。
健三郎。
兄の名だ。
かつてナタルと接点を持っていた男。
もしアルスの話が事実なら、ナタルとアルスが同一人物であることを裏付ける材料になる。
百五十年以上前に生きていた人間が、別の名前と姿で現代に生きている。
普通なら、荒唐無稽な話だろう。
だが、東郷はそれを笑い飛ばせない。
彼女自身が、百五十年以上の歳月を生きている。
この世界には、常識だけでは説明できないものがある。
そう考えたところで、別の疑問が浮かんだ。
――もし、ナタルがアルスとして今を生きているのなら。
健三郎もまた。
別の名を持ち、別の姿で、どこかに生きているのではないか。
マグを持つ手に、わずかに力が入った。
けれど、その力はすぐに抜けた。
「……考えるだけ、無駄か」
誰に聞かせるでもなく、東郷は呟いた。
マグを口元へ運ぶ。
ぬるくなったコーヒーを一口。
苦味だけが舌に残った。
アーカイブにはやるべきことがある。
この時代には、この時代で守るべきものがある。
東郷は過去を掘り返すために、百五十年を生きてきたわけではない。
未来へ進むためだ。
過ぎ去った時間を祀るためでも、失った誰かの記憶に縋るためでもない。
だからこそ、東郷は今日もアーカイブにいる。
今日という一日を使い切る。
それが、自分の選んだ生き方だった。
もし、いつか兄と再び巡り会うことがあるのなら――そのときは、その事実を受け入れればいい。
それ以上を望む必要はない。
東郷はマグをテーブルへ戻した。
視線を新聞へ戻す。
だが、ページをめくる指は動かなかった。
別の顔が、脳裏に浮かんでいた。
ソノラ。
初めてその名を聞いたときから、妙に引っかかる少女だった。
アルスが語った出会いも、あまりに現実離れしている。
森の奥。
澄んだ泉。
その水の中で眠っていた少女。
しかも、アンビジブルを単独で制圧できるほどの力を持っている。
東郷は窓へ目を向けた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、床の上で揺れている。
立ち上がり、窓辺へ歩いた。
レースカーテンを指先でわずかに開く。
手入れの行き届いた中庭が見えた。
夏草が風に揺れている。
東郷はその向こうを眺めながら、ソノラの姿を思い浮かべた。
この世界に存在している。
なのに、どこかこの世界のものではない。
幽玄の者たち。
この世界へ干渉する高次存在とも違う。
似ているようで、決定的に違う。
ソノラには、言葉では説明しづらい「ズレ」があった。
「サリーシャス、か……」
東郷の口から、惑星の名が落ちた。
すでに消滅した惑星。
残された記録も少なく、その名だけが時空を越えて断片的に伝わっている。
脳裏に、キラ・アステル・クンストンの言葉が蘇る。
――彼女は、サリーシャスの「意志」が形を取った存在かもしれない。
東郷は目を細めた。
にわかには信じがたい。
だが、あの王の話を、最初から戯言として片づけることもできない。
問題は、そこだった。
なぜサリーシャスと関係する存在が、ナタル――環アルスの傍にいるのか。
東郷は腕を組んだ。
風が吹き、カーテンの裾が揺れる。
その動きを目で追いながら、記憶の底を探った。
何かある。
まだ形にはならない。
だが、確かに引っかかっている。
東郷はしばらく黙っていた。
そして――
「兄貴が、昔助けたって言ってた少女も……確か、ソノラだったか」
言葉が口からこぼれた。
東郷自身が、その声に反応した。
視線が止まる。
古びた記憶の箱。
その蓋が、内側からわずかに持ち上がったような感覚があった。
昔、兄から聞いた話。
助けた少女。
その名前。
ソノラ。
東郷はゆっくりと息を吐いた。
――あの少女と、今アルスの傍にいるソノラは同じなのか。
もし、同じだとしたら。
健三郎は、何らかの形で彼女をアルスのもとへ導いたのだろうか。
東郷は目を伏せた。
そんなことが、人間にできるのか。
兄に特別な力があったとは思えない。
妹だった自分は、ずっとそう思っていた。




