第29話 東郷武蔵編 3
新聞を読み進めていた東郷の視線が、あるコラムの見出しで止まった。
小さな段組みに並んだ、地味な見出しだった。
だが、文字の選び方には妙な棘がある。
――ナタル教。
つい最近、世間を騒がせた誘拐事件を扱った記事だった。
筆者の肩書きには、「元被害者」とある。
東郷は新聞を少し持ち上げ、紙面へ顔を近づけた。
記事は、被害者自身の回想という形で綴られている。
信者のひとりが、旧知の友人であるかのような笑顔で近づいてきた。
その直後。
気づけば、病院の天井を見上げていた。
なぜ意識を失ったのか。
どこで、何があったのか。
そこだけが、きれいに抜け落ちている。
本人の記憶には、その前後をつなぐものが何もない。
東郷の指が、紙の端で止まった。
記事の文章からは、事件そのものよりも、記憶の空白だけが妙に浮き上がって見える。
まるで、誰かに都合のいい部分だけを切り取られたようだった。
東郷は傍らのマグカップへ手を伸ばす。
コーヒーはすっかりぬるくなっていた。
一口啜る。
熱も香りも抜けた苦味が、舌の上に残った。
視線が、記事の最後へ滑っていく。
そして、最後の一文で止まった。
「要注意してください――」
東郷の鼻から、ふっと息が漏れた。
「要注意、ねぇ」
新聞を持つ指が、ほんのわずかに動く。
東郷は眼鏡を外し、親指と人差し指で目頭を押さえた。
しばらくそのまま目を閉じる。
「ずいぶんと雑な締め方をする」
眼鏡をテーブルへ置く。
その声には、呆れとも皮肉ともつかない乾いた響きがあった。
東郷は再び新聞へ目を向ける。
だが、記事には戻らない。
頭の中では、すでに別の情報が並び始めていた。
ナタル教。
アンビジブル事件。
壊滅した本拠。
摘発された幹部たち。
収監された信者。
表向きに見れば、組織はすでに崩壊したように映る。
だが――東郷は、その見方を信用していない。
あれほどの規模を持っていた組織が、上層部を潰された程度で跡形もなく消えるはずがない。
実際、残党による散発的な動きは今も続いている。
表向きには、何も起きていない。
だが水面下では、国と警察が情報を共有し、主要都市に残る可能性のある拠点へ、ひそかに人員を配置している。
それでも、黒幕の正体だけは掴めていない。
誰が組織を動かしていたのか。
どこへ消えたのか。
そして、今もどこかで糸を引いているのか。
答えは出ていない。
東郷は新聞をテーブルへ戻した。
再びコラムへ目を向けることはなかった。
小さな記事だ。
掲載されている情報も、目新しいものではない。
それでも、東郷には引っかかるものがあった。
事件を伝えるはずの記事が、いつの間にか読者の不安を煽る文章へと変わっている。
事実を並べるだけなら、もっと別の書き方ができたはずだ。
誰が被害者で、何が起きたのか。
どこまでが確認された事実で、どこからが本人の記憶なのか。
そこを切り分けることなく、刺激の強い部分だけを拾い上げている。
東郷は新聞の端を指でなぞった。
情報は、並べ方ひとつで別の顔を見せる。
不安を煽る言葉がひとつ混ざるだけで、事実以上の輪郭を持ってしまう。
「報道の顔をした、ただの煽動だ」
東郷は小さく呟いた。
眼鏡を掛け直す。
レンズ越しに、窓の外へ視線を向けた。
街路樹の葉が風に揺れている。
陽の光を受けた葉先が、きらきらと瞬いていた。
鳥の声が聞こえる。
遠くを走る車の音も変わらない。
穏やかな休日の朝。
それなのに、東郷の指先には、さきほどまで触れていた新聞のざらつきがまだ残っているような気がした。
コーヒーを一口啜る。
冷めた苦味が、今度は妙に長く舌へ残った。




