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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子
橄欖色のアーカイブ ー日常編ー

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第28話 東郷武蔵編 2

 リビングのテーブルまで戻ると、東郷は手にしていた新聞を滑らせるように置いた。

 紙束が木の天板に落ち、ばさりと広がる。

 椅子には座らず、そのままキッチンへ向かった。

 棚を開け、大ぶりのマグカップと、使い慣れたインスタントコーヒーの瓶を取り出す。

 計量スプーンには手を伸ばさない。

 瓶の蓋を開け、人差し指と中指を差し入れる。ざらりとした粉の感触を指先で確かめ、適当な量をすくってマグへ落とした。

 黒い粉が、乾いた音を立てる。

 続いてポットに水を注ぎ、スイッチを押す。


 カチッ。


 小さな作動音が、朝の静けさに落ちた。

 東郷はポットを背に、キッチン脇の窓へ目を向けた。

 朝の光が街路樹を照らしている。風が葉を揺らすたび、枝の影が壁の上でゆっくりと形を変えていた。

 東郷の左手が、テーブルを二度、軽く叩く。


 とん、とん。


 昔からの癖だった。

 待ち時間を持て余しているわけでもない。ただ、指先が勝手に刻む一定の間隔に、ポットの湯が沸くまでの時間を預けている。

 やがて、ポットが短く鳴った。

 東郷は取っ手をつかみ、マグへ湯を注ぐ。

 黒い粉が湯に溶け、濃い色が広がっていく。湯気とともに、インスタントコーヒー特有の香りが立ちのぼった。

 マグを持ち上げる。

 一口啜る。

 熱が唇に触れ、舌先に苦味が残った。

 東郷はわずかに目を細める。

 それだけだった。

 香りも薄い。味も粗い。

 それでも、東郷はもう一口啜った。


 この程度でいい。

 むしろ、これでなければ落ち着かない。

 マグをテーブルへ置くと、東郷はソファの脇へ手を伸ばした。

 そこに置かれていたスクエア型の老眼鏡をつまみ上げる。

 黒縁のフレームを鼻へ掛けると、先ほどまでの寝起きの顔がわずかに引き締まった。

 新聞を手元へ引き寄せる。

 レンズの奥で視線が走り、一面をざっと眺めた。

 紙をめくる。


 ぺらり。


 インクの匂いが鼻をかすめる。ざらついた紙の感触が指先に残り、ページを繰るたび、小さな音が部屋に響いた。

 社会面の事件記事を上から順に追っていく。

 東郷の目が、記事の見出しから本文へ、本文から数字へと滑っていく。


 ――死者数。


 ――発生時刻。


 ――現場の所在地。


 ――警察発表。


 書かれている内容を拾い上げるように読み進め、次の記事へ移る。

 目新しい情報はない。

 少なくとも、東郷にとっては。

 かつて情報部門の中枢にいた彼女にとって、新聞に載る情報は、多くの場合すでに知っているものだった。

 それでも、新聞を閉じることはない。

 むしろ、記事の細部へ視線を落としていく。

 どの情報を最初に持ってきたのか。

 どの数字を強調したのか。

 逆に、何について触れていないのか。

 東郷は記事そのものより、その記事が「どう書かれているか」を見ていた。

 視線が、ある一文の上で止まる。


(現場の温度がないな)


 記事を指先で軽く叩く。


(現地取材じゃない。発表資料をまとめただけか)


 次のページへ。


 今度は統計を扱った記事だった。

 数字を追っていた目が、ほんの一瞬だけ細くなる。


(……数字の切り取り方が露骨だな)


 掲載されている数字そのものに間違いはない。

 だが、比較対象がない。

 前年度の数字も、母数も、別の指標も載っていない。

 これでは、読者が受け取る印象をいくらでも操作できる。


(誘導臭い。さて……何を隠してる?)


 東郷は記事を最後まで読み、それから次へ進んだ。

 眉をひそめることもない。

 ため息もつかない。

 ただ、紙面をめくる指だけが一定の速度を保っている。

 事件記事。

 政治面。

 経済面。

 そして、芸能面。

 芸能人の離婚や、三流タレントの不祥事の記事にも、東郷は目を通した。

 そこだけは情報部門にいた頃も、ほとんど縁のなかった領域だ。

 だが、だからこそ読む。

 知らない分野の記事ほど、書き手の癖が見えやすい。

 見出しの付け方。

 写真の選び方。

 記事の長さ。

 どこに紙面を割いているのか。

 東郷にとって新聞は、情報を得るためだけのものではなかった。

 そこに並ぶ活字の一つひとつが、誰かの判断によって選ばれたものだ。

 ならば、その選択そのものにも意味がある。

 東郷はページをめくる。


 傍らでは、先ほど淹れたコーヒーがまだ湯気を残していた。

 マグを手に取り、一口啜る。

 苦味が舌に広がる。

 東郷は新聞へ視線を戻した。

 窓の外では、風に揺れた葉がかすかな音を立てている。

 それ以外には、紙の擦れる音しかない。

 東郷の休日は、そんな小さな音とともに始まっていた。

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