第27話 東郷武蔵編 1
朝の光が、薄手のレースカーテンの隙間から差し込んでいた。
柔らかな陽射しが寝台の上を横切り、枕元に広がる翠色の髪を淡く照らしている。その髪に埋もれるように眠っていた東郷の頬にも、光がそっと触れた。
まぶたの裏にぬくもりを感じ、東郷はわずかに眉を寄せる。
やがて、ゆっくりと目を開いた。
天井の模様がぼんやりと滲んでいる。
しばらく何をするでもなく、それを眺めていた。まだ眠気の残る頭が、少しずつ現実へと戻ってくる。
――今日は、休みだったな。
そのことを思い出すと、東郷は小さく息を吐いた。
もう一度眠るという選択肢もあった。だが、目はすっかり覚めてしまったらしい。
寝台が軋む。
東郷は上体を起こした。長い髪が肩を滑り、寝間着の布地が肌を擦る。伸びをするように腕を回し、続いて首を左右に倒す。固まっていた関節が、ひとつずつ音を立ててほどけていった。
ベッドの縁に腰を下ろす。
窓の外では鳥が鳴いていた。
その向こうから、朝の街を走る車の音がかすかに届く。静かな空気の中に、都市の営みだけが薄く混ざっている。
穏やかな朝だった。
東郷の暮らす部屋は、クンストン王が保有する敷地の一角に建っている。
周囲に人影はほとんどない。ここを知る者も限られている。
広さのわりに、部屋には物が少なかった。
家具は必要最低限。装飾らしいものもない。壁や床も落ち着いた色合いで統一され、殺風景といえば殺風景だが、東郷自身はそれを不便だと思ったことがない。
眠る場所と、仕事をする場所。
それさえあれば十分だった。
そもそも以前は、東郷自身が市街地に部屋を借りて暮らしていた。
ただし――その生活は、決して人に見せられるようなものではなかった。
アーカイブの任務に追われ、帰宅する頃には日付が変わっていることも珍しくない。
洗濯物は洗濯機の中に放置され、書類は机から床へと領土を広げ、食べ終えた食器はシンクの中で積み上がっていく。
本人にとっては、それで何の問題もなかった。
帰って、眠れればいい。
生活空間など、東郷にとっては仕事と仕事の間にある、ほんのわずかな隙間にすぎなかった。
――あの日までは。
「ふむ。ここが東郷の住処か……む?」
珍しく好奇心を抑えきれなかったキラ・アステル・クンストン――クンストン王が、東郷の私室を訪れた。
護衛を振り切ってまでやって来た王は、扉が開いた瞬間、その場で固まった。
床には書類。
椅子には脱ぎっぱなしの衣服。
倒れたカップがひとつ。
その奥には、いつから置かれているのか分からないダンボール箱の山。
視線を左右に動かしたキラの眉が、みるみるうちに吊り上がっていく。
「これは……人が住む環境ではないな!!」
怒号とともに、杖が床を叩いた。そして三頭身の身体がそれに合わせて飛び上がった。
東郷はというと、そんな王を横目にコーヒーを啜る。
「これでもマシなほうだ」
「何を基準にしている!?」
その一言が、火に油を注いだ。
数日後。
東郷のもとには、新しい住居が用意された。
王の敷地内にある現在の部屋だ。
本人にとっては、寝る場所が変わっただけだったが、実際には王の目が届く場所へ移されたという意味合いもあった。
もちろん、東郷は反対した。
「寝られればいい」
「それではいかん!」
キラは一歩も引かなかった。
「人間、まともな住まいに帰れねば、まともな思考もできぬ。国家の損失だ!」
結局、東郷の意見は国王の権力によって押し切られた。
そして現在。
東郷が暮らすのは、簡素ながら広々とした二LDKの部屋だ。
家具は必要最低限。冷たい色合いのインテリアに、広く取られた余白。
生活感がないというより、生活のために必要なものだけが置かれている。
ただし、この部屋が清潔に保たれているのは、東郷の几帳面さによるものではない。
二週間に一度、王の命を受けた家政婦がやって来るからだ。
以前は週に一度だった。
だが、東郷がほとんど自宅に帰らないこともあり、一度だけ月に一度へと減らされたことがある。
それが、間違いだった。
一ヶ月後。
久しぶりに部屋へ入った家政婦は、玄関で立ち尽くした。
書類は雪崩を起こし、床を覆っている。
そして冷蔵庫の中では、名前すら分からない何かが立派に繁殖していた。
翌日、その惨状は王の耳へと届いた。
清掃頻度は即座に二週間に一度へ戻された。
以来、家政婦は東郷の部屋へ通うたび、まるで神殿を整えるかのような手つきで掃除をしている。
当の東郷は、その様子を見るたび首を傾げていた。
「こんなに掃除しなくても、死にはしないのにな」
その呟きが家政婦や国王の耳に届くことは、一度もなかった。
そんな部屋を見渡し、東郷は小さく息を吐いた。
ベッドから立ち上がる。
寝起きの身体にはまだ重さが残っていたが、足取りに乱れはない。
廊下へ出ると、朝の光が床を細長く照らしていた。
東郷はその光を踏むように歩き、洗面所へ向かう。
蛇口をひねる。
冷たい水を両手ですくい、顔へ叩きつけた。
「……っ」
眠気が一気に引いていく。
続いて歯ブラシを手に取ると、一定のリズムで歯を磨き始めた。
動きに迷いがない。
水を止める。口をすすぐ。歯ブラシを戻す。
どれも必要な動作だけを、必要な順番でこなしていく。
軍人だった頃から染みついた習慣は、休日の朝になっても抜けることがない。
東郷はタオルで濡れた頬を拭き、鏡を覗き込んだ。
そこに映るのは、見慣れた自分の顔だった。
長い翠髪。
鋭さを残した目元。
口元には、長い年月を経ても消えない硬さがある。
東郷はしばらく鏡を見つめた。
指先で頬に触れる。
そして、ほんの少しだけ眉を上げた。
――少し、老けたか。
そう思ったところで、指を離す。
百五十年。
それだけの時間を生きてきた。
姿形が大きく変わらなくても、積み重ねてきた年月まで消えるわけではない。
鏡の中の目が、静かにこちらを見返している。
東郷はそれ以上考えることなく、タオルを畳んで元の位置へ戻した。
洗面所を出る。
向かう先は玄関だった。
素足に、床板のひんやりとした感触が伝わる。
東郷はそのまま廊下を進み、玄関の扉へ手を伸ばした。
取っ手に触れた指先へ、金属の冷たさが返ってくる。
扉を開けた。
途端に、朝の空気が室内へ流れ込んできた。
頬を撫でる風には、澄んだ朝の匂いがある。土と緑の匂いも、ほんのわずかに混じっていた。
東郷は目を細める。
差し込んだ陽光が髪を透かし、一房だけが銀色に光った。
ふと視線を落とす。
郵便受けから、新聞が数束、きれいに顔を覗かせていた。
普段ならアーカイブで目を通しているものだ。
だが今日は休日。
どうやら、才原が届けさせたらしい。
東郷は新聞を一束ずつ抜き取った。
紙面はぴしりと折られ、きれいに揃えられている。
しかも、郵便受けから取り出しやすいよう、束ごとに折り目の位置がわずかにずらされていた。
東郷は新聞を眺め、それから小さく鼻を鳴らす。
――あいつ、余計なところで律儀だな。
新聞を片手に踵を返す。
玄関の扉を押し戻し、静かに閉めた。
音はほとんど立たない。
裸足のまま、東郷はリビングへ戻っていく。
足音は小さい。
朝の静寂を壊さない、影のような歩みだった。
肩の力は抜けている。
休日の朝らしい、少し気怠げな姿。
それでも背筋だけは真っ直ぐだった。
長い翠髪が背中で揺れる。
その手には、今日の新聞。
いつもの戦場も、任務もない朝だというのに――東郷の歩みには、軍人だった頃の癖がまだ残っていた。




