第26話 宵月カナト編 11
宵月はアサミのあとを静かに歩き、階段を上っていった。
二階の一番奥。
アサミが襖を開けると、ふたりはそのまま部屋へ入った。
そこは、静かな和室だった。
整えられた畳の上には余計なものがなく、壁際には本棚が並んでいる。その隣には、衣装や舞台道具を収めた大きなクローゼット。窓際には漆塗りの化粧前が置かれていた。
派手さはない。
けれど、どこに何を置くかまで決められているような室内には、アサミらしい端正な空気が漂っていた。
「そこに座って」
アサミは座布団に腰を下ろし、向かいの座布団を軽く手で示した。
宵月も腰を下ろす。
しばしの沈黙のあと、アサミが口を開いた。
「カナト。今回の任務、かなり危険だったって聞いたよ」
宵月の指が、膝の上でわずかに動いた。
「ちょっとだけ、耳に入ってきたんだ」
返事はない。
宵月は畳へ視線を落としたまま、拳を握っていた。
アサミはそれを見ても、すぐには言葉を重ねなかった。
「安心して。任務の詳しい内容までは聞いてないよ。才原さんも、そこはきっちりしてるからね」
アサミは小さく息を吐き、苦笑する。
「ただ……妹がそんな危ない場所にいたって知ったら、平気な顔でいろってほうが無理な話さ」
宵月のまつげが、かすかに揺れた。
ゆっくりと顔を上げる。
「私は、大丈夫でした。兄様」
「うん」
「ただ……」
そこで言葉が途切れた。
握った拳に、さらに力が入る。
「今回の任務で、自分の未熟さを思い知らされました」
爪が掌に食い込む。
「それが、悔しくて」
アサミはしばらく何も言わなかった。
やがて、その横顔にふっと昔を思い出すような笑みが浮かぶ。
「カナトはお祖父様に似ているよ」
「お祖父様に?」
「ああ。真面目で、何でも一人で背負おうとするところがね」
アサミは立ち上がると、窓辺へ歩いていった。
障子を少し開ける。
夜風が細く部屋へ入り込み、畳の上を撫でていった。
その向こうには、澄んだ夜空。
下弦の月が、星々の間に静かに浮かんでいる。
「私が言いたいのはね」
月を眺めたまま、アサミが続ける。
「私たちは、君のことをちゃんと案じている。それだけは、忘れないでほしい」
宵月は答えなかった。
ただ、窓の向こうへ視線を向ける。
夜風が、頬を撫でていく。
「子ども扱いしてるわけじゃないよ」
アサミが振り返った。
「家族として、心配してるんだ」
「はい」
宵月は小さく頷いた。
「分かっております、兄様」
アサミはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、いつものように穏やかに笑った。
「話はそれだけさ」
窓を閉めながら、アサミが言う。
「明日からはまた別邸での稽古が始まる。今日は久しぶりに、皆で夕飯を囲めて嬉しかったよ」
「私も楽しかったです」
「そうか」
アサミは満足そうに頷いた。
「じゃあ、おやすみ。カナト」
「おやすみなさいアサ兄様」
宵月は立ち上がり、襖へ向かった。
そっと襖を開け、部屋を出ようとした――そのとき。
「……ああ、そうだ」
背後から声が飛んできた。
宵月が振り返る。
アサミは、先ほどまでと変わらない穏やかな顔をしていた。
「さっき話に出ていたアルスくん」
「はい」
「今度、私たちがいるときに連れておいで」
「…………」
「ぜひね」
「…………はい」
宵月はそれだけ答えると、襖を閉めた。
閉じた襖の向こうから、アサミの気配が遠ざかっていく。
「……」
廊下に立ったまま、宵月は小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
窓から差し込む月明かりが、廊下の床を淡く照らしていた。




