第23話 宵月カナト編 8
夕暮れの空が茜色に染まる頃。
忙しない一日を終えた宵月は、ようやく家の門をくぐった。
重い扉を開けると、玄関にはふわりと花の香りが漂っている。
「おかえりなさいませ、カナトお嬢様」
いつもの穏やかな声とともに出迎えたのは、宵月家の家政婦・亀子だった。
白髪をきっちりと結い上げ、姿勢を崩さない。その佇まいには、長年この家を支えてきた者ならではの落ち着きがある。
「ただいま、亀子さん」
靴を脱ぎながら、宵月はふと顔を上げた。
「……今日は、なんだか騒がしいですね」
玄関の奥から、人の話し声が聞こえてくる。
時折、笑い声まで混じっていた。
亀子は口元に手を添え、くすりと笑う。
「ふふ。お察しの通りです。今日は久しぶりに、お坊っちゃまたちが揃ってお帰りになっておられますのよ」
宵月の足が止まった。
その瞬間、廊下の奥から足音が近づいてくる。
現れたのは、三人の男たちだった。
「ただいま、カナト。いや、今は『おかえり』と言うべきかな?」
先頭に立っていたのは、長男の宵月アサミ。
腰まで届く艶やかな黒髪を先端でふわりと結び、さらりと着流しをまとっている。
柔らかな笑みを浮かべる姿は、兄というよりどこか貴族を思わせた。
「アサミ兄様」
続いて姿を見せた次男と三男を見て、宵月は目を瞬かせる。
「ミツハ兄様、ハルカ兄様も」
「おかえり、カナト……」
短く声をかけたのは、兄弟の中で一番背の高い次男・ミツハだった。
短く切り揃えた黒髪に、無駄のない立ち姿。
相変わらず口数が少ない。
「戻ってくるのは、一ヶ月後の予定ではありませんでしたか? 何かトラブルでも?」
「うん。次の巡業先で少し問題が起きてね」
アサミが袖口を整えながら答える。
「公演が延期になったから、しばらく待機になったんだ。それで、この機会に帰省することにしたのさ。ちょうどカナトの顔も見たかったしね」
「他の団員たちも帰省している……」
ミツハが短く付け加える。
「そういうことですか」
宵月が頷く。
すると、ミツハがぽつりと続けた。
「それに、亀子さんの飯も食べたかった……」
「あら」
亀子の頬が、嬉しそうに緩む。
「まぁ、ミツハ坊っちゃまったら」
「そうだよなー」
横から、明るい声が飛んできた。
「ミツ兄、この前だって亀子さんが興行のために作ってくれた羊羹、一日で全部食べてたもんな!」
「……あれは腹が減っていたからだ」
ミツハがぼそりと返す。
「一日で全部食べる理由にはならないだろ」
そう言ってけらけら笑うのは、三男のハルカだった。
宵月と同じくらいの背丈で、おかっぱ頭を揺らしながら、兄弟の中でもひときわ賑やかに動き回っている。
そして、何かを思い出したように宵月へ駆け寄った。
「そうだ、カナト! この前、旅先でめっちゃうまい甘味を見つけたんだ! 買ってきたから、あとで一緒に食べようぜ!」
「……夕飯の前に?」
「ちょっとくらいなら――」
ハルカが宵月の腕に手を回そうとした、その時。
「ハルカ」
アサミの穏やかな声が飛んできた。
「甘いものは夕飯のあとにしよう。せっかく亀子さんが心を込めて作ってくださったんだ。お腹いっぱいで味わえなかったら、もったいないだろう?」
「わかってるって、アサ兄!」
ハルカは宵月から手を離し、にっと笑う。
「ちゃんと晩ご飯のあとにデザートタイムにするから!」
「それならいいけれど」
アサミが笑う。
その隣で、亀子も嬉しそうに目を細めた。
「まあまあ。皆さまがお揃いになると、食卓も賑やかになりますね」
その言葉に、宵月は兄たちを見回した。
予定より早い帰宅。
突然の三人の帰省。
学校では朝から騒動に巻き込まれ、ようやく一日が終わったと思ったところだった。
「今日は、本当に騒がしい一日だな」
思わず漏れた呟きに、ハルカが笑った。
「いいじゃん、たまには!」
そう言うなり、ハルカは宵月の手を取る。
「さあ、カナト! 早く行こう! ミツ兄にご飯取られちゃうぞ!」
「……そんなことするわけないだろう」
背後からミツハの低い声が飛んでくる。
しかし、ハルカは聞こえなかったふりをして、そのまま宵月を引っ張っていく。
「ほらほら、早く!」
「ハルカ、走るな。廊下だぞ」
「大丈夫、大丈夫!」
軽い足音が廊下に響く。
宵月は呆れたように息を吐きながらも、握られた手を振りほどこうとはしなかった。
その口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
「……まったく」
そう呟きながら、宵月もまた、賑やかな食卓へ向かって歩き出した。




