第14話 モルガ・カービー編 7
「東郷」
名を呼ぶ声は静かだった。
けれど、妙に耳に残る。
柔らかいのに、芯がある。長い年月を重ねた者だけが持つ、揺るがない響きだった。
「なんだ」
東郷は書類から目を上げない。
紙をめくる音だけが、しばらく室内に残った。
桜子はそれを気にする様子もなく、窓辺に立ったまま微笑んでいる。午後の陽射しが白銀の髪を縁取っていた。
「さっきのモルガちゃん、元気だったわね」
「ああ」
「まっすぐで、目がよく澄んでいたわ」
桜子は窓の外へ視線を向ける。
「……ああいう子を見ると、私もまだ老け込んでいられないなって思うの」
「そうか」
「ええ」
短いやり取り。
桜子はそこで一度、言葉を切った。
窓から差し込む光の中で、紅茶の水面がかすかに揺れる。
「ところで――」
声の調子が、ほんの少し変わった。
「もう一人、新しく入った若い子がいるそうね」
東郷の指が、書類の端で止まる。
「どんな子なの?」
「環アルス」
東郷は淡々と答えた。
「ごく普通の少年だ」
「……“普通”の、ね?」
桜子がくすりと笑う。
その笑みを、東郷は見ない。
「そうだ」
「ふふ……」
桜子はそれ以上追及しなかった。
代わりに、手にしていた紅茶へ口をつける。
東郷もマグカップを持ち上げた。
苦いコーヒーが舌に残る。
その苦味を確かめるように、東郷はもう一口飲んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて――
「ねぇ、東郷」
桜子の声が、少しだけ低くなった。
「あの人が、今の私を見たら……どう思うかしら」
急な話の飛躍に東郷の手が止まった。
桜子は紅茶のカップを両手で包んでいる。
指先が、ほんのわずかに震えていた。
それでも彼女はカップを置こうとはしなかった。
白銀の髪の向こうに見える横顔には、幾重にも刻まれた皺がある。
その皺を、午後の光が静かに撫でていた。
東郷は手元の書類を閉じた。
紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
そして初めて、桜子を見る。
「兄貴がどう思うかなんて、俺には分からねぇ」
桜子は黙っている。
「ただな」
東郷は一度だけ言葉を切った。
「お前が自分で思ってるようなことを、兄貴が考えてるとは思えねぇよ」
「…………」
桜子の瞳が、わずかに揺れた。
やがて、張っていた肩の力が抜ける。
「……そうね」
口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「あの人と私は、いつだって正反対だったもの」
桜子は紅茶のカップへ目を落とした。
すっかり冷めている。
それでも彼女は、そのままカップを口元へ運んだ。
ゆっくりと飲み干す。
空になったカップをテーブルへ戻すと、かすかな音がした。
「でも……」
桜子が窓の外を見る。
午後の光が、白銀の髪に淡く差している。
「だからこそ、あの人の考えていたことが分からないのよ」
東郷は何も答えなかった。
ただ、冷めかけたコーヒーを静かに飲み続けた。




