第11話 モルガ・カービー編 4
青い扉が静かに閉じられると、世界がふっと切り離されたように感じられた。
部屋は広くない。
中央には角の丸い木製の机が一つ。その向かいに椅子が二脚並び、壁際には観葉植物が置かれている。深い緑の葉がエアコンの風を受け、かすかに揺れていた。
「モルガ。そこに座れ」
東郷が向かいの椅子を指差す。
「はい」
モルガは小さく頷き、腰を下ろした。
椅子がかすかに軋む。
東郷も向かいの椅子に座ると、背筋を伸ばしてモルガを見つめた。
「――早速、本題に入る」
その一言で、モルガの背筋が伸びた。
両手を膝の上に置き、東郷の言葉を待つ。
「城下町にあるカフェラートで、しばらく働いてもらう」
「……え?」
思わず間の抜けた声が出た。
「アルバイト……ですか?」
「ああ」
東郷は平然と頷く。
モルガは目を瞬かせた。
もっと重要な任務を想像していた。もしかしたら危険な仕事かもしれないと、ここへ来るまで何度も考えていた。
それが――アルバイト。
「たしか……アルス君が働いてるカフェですよね?」
「そうだ」
「…………」
東郷はそれ以上、何も言わない。
モルガはちらりとその顔を窺った。
表情はいつもと変わらない。
けれど、わざわざ自分を別室へ呼び出してまで伝える話が、ただのアルバイトであるはずがない。
「分かりました。やってみます」
モルガが答えると、東郷はわずかに顎を引いた。
「ただのアルバイトじゃない」
声が一段低くなる。
「――監視任務だ」
モルガの目が見開かれた。
「アルスと一緒にいるソノラという少女がいるな」
「はい」
「彼女を見ていてほしい。店で働きながら、できるだけ自然に接触してくれ」
「ソノラって……」
モルガは記憶を探る。
「宵月さんが言っていた、“アンビジブルを一人で倒した”っていう女の子ですよね?」
「ああ」
「……あの子を?」
「そうだ」
モルガは少しだけ首を傾げた。
「でも、ソノラって……そんなに強い人には見えませんでした」
「見た目だけで判断するな」
東郷の言葉が落ちる。
「お前も、事務所で何度か顔を合わせているだろ」
「はい。淡い銀髪で、あまり喋らなくて……」
モルガは思い出すように視線を上へ向けた。
「なんていうか、静かな子ですよね。何を考えてるのか、ちょっと分かりにくいというか」
「だからこそだ」
東郷の声に、わずかな重みが加わった。
「力のある奴ほど、目を離すな」
「…………」
「本人が自覚しているかどうかは関係ない」
モルガは黙って頷いた。
その言葉の意味を、まだすべて理解できたわけではない。
それでも、東郷がこの任務を軽く考えていないことだけは伝わってきた。
しばらくして、東郷がふと視線を落とす。
「……まぁ、監視と言ってもな」
その声から、先ほどまでの硬さが少しだけ抜けた。
「本音を言えば、見守っていてほしいだけだ」
「見守る……?」
「ああ」
東郷は椅子の背もたれに身体を預けた。
「これから、あいつらは厄介なことに巻き込まれる可能性がある」
観葉植物の葉が、風に揺れる。
「アンビジブルだけじゃない。ナタル教の残党もいる。ムルメルの件だって、まだ終わったわけじゃねぇ」
東郷は一度言葉を切った。
「もしアルスやソノラの身に何か起きそうになったら、迷わず俺たちに知らせろ」
「……それだけですか?」
「ああ」
東郷の視線が、モルガをまっすぐ捉える。
「それだけでいい」
モルガはその目を見つめ返した。
しばらく何も言えなかった。
命令されているはずなのに、不思議と重圧は感じなかった。
むしろ――任せてもらえたのだという感覚が、胸の奥に残った。
「……分かりました」
モルガはゆっくりと頷いた。
そして、膝の上に置いていた手をぎゅっと握る。
「東郷さん!」
椅子から少し身を乗り出す。
「任せてください! 私、この任務、ちゃんとやり遂げてみせます!」
東郷はしばらくモルガを見つめていた。
やがて、ふっと目を細める。
「……いい心意気だ」
ほんのわずかに口元が緩んだ。
「だが、張り切りすぎるな」
「え?」
「ソノラにも、アルスにも気づかれたら意味がねぇ。いつも通りにしてろ」
「はい!」
「自然に接すること。それが一番難しい」
「……分かりました!」
モルガは力強く頷いた。
その声に、もう迷いはなかった。
「開始日時と詳しい内容は、あとで才原から連絡させる」
東郷が立ち上がる。
「今日の話は終わりだ。直接話せてよかった」
「はい」
モルガも立ち上がった。
東郷が扉へ向かおうとした、そのとき。
「東郷さん」
「ん?」
「最近、ずっと忙しそうでしたもんね」
東郷の足が止まる。
「……まぁな」
小さく息を吐く。
「今も継続中だが」
「あっ……」
モルガの笑顔が固まった。
「す、すみません! じゃあ、才原さんからの連絡、待ってますね!」
「あぁ」
「お疲れ様でした!」
モルガは慌てて頭を下げると、扉へ駆けていく。
取っ手に手をかけ、一度だけ振り返った。
そしてモルガはもう一度頭を下げ、扉の向こうへ消えていった。
やがて、青い扉が静かに閉じる。
部屋に静寂が戻った。
東郷はしばらく、その扉を見つめていた。
やがて懐から銀色のケースを取り出す。
蓋を開け、一本の煙草を抜く。
ライターの火が、小さく揺れた。
東郷は煙草をくわえ、深く息を吸い込む。
白い煙が、ゆっくりと吐き出される。
淡い照明の下で煙は細く揺らめき、やがて東郷の横顔を覆っていった。
その表情は、もう見えない。
ただ、煙の向こうで握られた拳だけが、わずかに強くなっていた。




