第10話 モルガ・カービー編 3
荷物を運び終えたモルガが、そっと扉を押し開けた。
「……失礼しまーす」
ほんの少しだけ顔を覗かせ、室内をきょろきょろと見回す。肩から跳ねるサーモンピンクの髪まで、その動きにつられるように揺れていた。
「おかえりなさい。冷えてますよ」
才原が手招きしながら、ガラスのコップを差し出す。
「わっ、ありがとうございます」
コップの中では氷の浮いた麦茶が、淡い琥珀色の光を返している。
「ちょうど喉、カラカラだったんです」
モルガは嬉しそうに受け取ると、すぐさま口をつけた。
ごく、ごく、と喉を鳴らして一気に飲み干す。
「ぷはぁ」
空になったコップを胸元に抱え、モルガは大きく息を吐いた。
「生き返りましたぁ」
「そんなに喉が渇いてたんですか?」
「緊張すると、なんだか喉が渇いちゃって」
そう言って笑ったものの、モルガはすぐにコップへ視線を落とした。
「……でも」
指先が、コップの縁をそっとなぞる。
「やっぱり、緊張しますね」
「まぁ、最初は仕方ないですよ」
才原が穏やかに言う。
「東郷は基本仏頂面ですから」
「そうなんですよぉ……!」
モルガは困ったように笑う。
「なんというか……東郷さんって、近くにいるだけで背筋が伸びるというか、でも……怖いっていうのとは、ちょっと違うんです」
コップを両手で包み込みながら、言葉を探す。
「なんていうんでしょう。立ってるだけで、周りの空気が変わるっていうか……」
「ふふ」
才原が小さく笑った。
「確かに、あの人はそういうところがありますね」
「それに、現場にいる東郷さんって、本当にカッコいいですよね!」
モルガの目が、ぱっと輝いた。
「無駄なことは一言も言わないのに、何をすればいいのか自然と分かるっていうか……。背中で語るって、ああいうことなんだなって」
そこまで言って、モルガは照れくさそうに頬をかいた。
才原はそれはただ単に話すのが面倒臭いだけなんだろう、ということはモルガには伝えづ彼女の様子を見て微笑んでいる。
「私も、いつかあんなふうになれたらなぁって……」
その瞬間だった。
カチャリ。
事務所の扉が開いた。
「――っ!」
モルガの身体がびくりと跳ねる。
振り返った先に立っていたのは、噂をしていた本人――東郷だった。
「……」
東郷は何も言わず、モルガたちを見渡す。
「お、お疲れ様です!」
モルガが慌てて頭を下げた。
「お疲れ」
東郷は短く返す。
その隣から、もう一人の人物がゆっくりと姿を現した。
淡いピンク色のワンピースに身を包んだ、老年の女性だった。
白銀の混じった髪をきれいにまとめ、歩みを止めると、腹の前で両手を静かに重ねる。
その立ち姿には、長い年月を重ねてきた人だけが持つ落ち着きがあった。
「ごきげんよう、皆さん」
涼やかな声が響く。
モルガは思わず背筋を伸ばした。
「……?」
女性はそんなモルガを見て、柔らかく微笑む。
すると、才原がすぐに声をかけた。
「桜子さん。お久しぶりです」
「ええ。才原も宵月ちゃんも元気そうね」
「ご無沙汰しております。神宮寺さん」
宵月はそう言って深々と頭を下げた。
神宮寺桜子は、目尻に皺を浮かべて微笑んだ。
「久々に顔を見られて安心したわ」
そう言ってから、隣の東郷へちらりと視線を向ける。
「今日はね、この子と久しぶりに食事をしてきたのよ」
「……余計なことまで言うな」
東郷がぼそりと呟く。
「あら、いいじゃない」
桜子は楽しそうに笑った。
「こちらから何度も誘わないと、ちっとも付き合ってくれないんですもの。この子ったら、本当に素っ気なくて」
「相手にしてないわけじゃねぇよ」
東郷は頭をかきながら、わずかに顔を背ける。
「ただ忙しいだけだ」
「はいはい。そういうことにしておきましょうか」
「……ったく」
東郷が小さく息を吐く。
そのやり取りを見ていたモルガは、ぽかんと二人を見比べていた。
「……あの」
おそるおそる宵月の袖を引く。
「ん?」
「あの方は……?」
宵月は頷き、モルガに向き直った。
「そういえば、まだ紹介してなかったな」
そして、桜子へ視線を向ける。
「この方は神宮寺桜子さん。アーカイブでも特に長く活動されている方だ。私たちが何かと頼りにしている先輩だよ」
「まぁ」
桜子が嬉しそうに目を細める。
「そんなふうに言ってもらえると、少し照れてしまうわね」
彼女はモルガの前まで歩み寄ると、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、モルガさん。神宮寺桜子と申します。どうぞよろしくね」
「は、はいっ!」
モルガも慌てて頭を下げる。
「初めまして! モルガ・カービーです!」
勢い余って、ぺこりと頭を下げすぎる。
「ふふ」
桜子が楽しそうに笑った。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「す、すみません!」
「謝らなくてもいいのよ」
桜子はそう言って、モルガの肩を優しく叩いた。
その手つきに、モルガの表情が少しだけ緩む。
だが、まだ肩には力が入ったままだった。
それを見ていた才原が、頃合いを見計らうように口を開く。
「東郷。そろそろ、モルガさんに例の仕事の話をしては?」
「ああ」
東郷が頷く。
「桜子」
「分かってるわ」
桜子はくすりと笑い、東郷へ目を向けた。
「でも、この子はまだ入ったばかりでしょう? あまり無茶はさせないことね」
「無茶なんかさせねぇよ」
「なら、安心ね」
東郷は返事の代わりに小さく息を吐くと、部屋の奥にある青い扉を指差した。
「モルガ」
「は、はい!」
「こっちだ。話は向こうでする」
「……はい」
名前を呼ばれた瞬間、モルガの肩がぴくりと揺れた。
麦茶の入っていたコップをそっと机へ戻す。
そして一度だけ、宵月を振り返った。
宵月は何も言わず、ただ小さく頷く。
その目を見たモルガは、ぎゅっと唇を結んだ。
「……行ってきます!」
「ああ」
モルガは桜子にも一礼する。
「失礼します!」
「ええ。いってらっしゃい」
桜子の声に背中を押されるように、モルガは東郷の後を追った。
二人の姿が青い扉の向こうへ消えていく。




