第9話 モルガ・カービー編 2
宵月は、ふぅ、と小さく息を吐いた。手にしたコップの縁を指先でなぞりながら、ぽつりと呟く。
「さすがに東郷さんも、モルガに無茶はさせないとは思うけど」
冷静な口調だったが、その奥には隠しきれない心配が滲んでいた。
「ええ。たぶん大丈夫ですよ」
才原はそう答えると、どこか意味ありげに微笑んだ。
「実は、モルガさんの任務については、僕も東郷から事前に相談を受けていまして」
「……そうだったんですね」
宵月の眉がわずかに動く。
「はい」
才原は眼鏡の位置を直しながら、静かに続けた。
「今回の任務は、彼女にとって大きな節目になるかもしれません」
「節目?」
「ええ。きっと、そうなると思います」
才原の声には迷いがなかった。
「何しろ今回は――モルガさんにしかできない仕事ですから」
宵月の指が止まった。
「モルガにしか?」
「はい」
「僕でも、宵月さんでも無理でしょうね」
才原は淡々と答えた。
「僕たちには、向いていない仕事ですから」
「向いていない?」
「必要なのは、実力よりも“適性”です」
その一言だけで、才原が意図的に話を濁していることが伝わった。
宵月はしばらく才原を見つめ、それから視線を落とす。
「…………」
短い沈黙。
やがて宵月は顔を上げ、才原をまっすぐに見据えた。
「なんとなく察しはつきました」
「そうですか」
「でも……」
宵月の声が少しだけ低くなる。
「モルガに、あまり危ないことはさせないでほしい」
静かな声音だった。
それでも、その言葉にははっきりとした強さがあった。
才原は一瞬だけ目を細める。
だが、すぐに苦笑するような笑みを浮かべた。
「もちろんです。無理をさせるつもりはありませんよ」
「なら、いいんですが」
「それに――」
才原は肩をすくめる。
「僕たちとは、立ち位置が違いますから」
それだけ言うと、才原は話を切り上げるように立ち上がった。
「少し喉が渇きましたね。麦茶、飲みます?」
「え? ああ……お願いします」
才原は事務所の隅に置かれた小さな冷蔵庫へ向かう。
ガコン、と扉を開けると、冷気がふわりと流れ出した。
才原は冷えた麦茶のペットボトルを取り出し、棚からガラスのコップを三つ手に取る。
とく、とく、と麦茶が注がれていく。
静かな事務所に、その音だけが小さく響いた。
やがて一杯目を宵月の前に置くと、才原は何気ない調子で口を開く。
「そういえば、東郷が言ってました」
「何をです?」
「任務の内容を正式にモルガさんへ伝えたら、宵月さんにも共有するそうです」
「そうですか」
「ええ」
才原は二杯目、三杯目と麦茶を注ぎながら、ふと笑った。
「それにしても、モルガさんをアーカイブに誘ったのって、宵月さんでしたよね?」
宵月は一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「あぁ」
「なら、気にかけるのも無理はないですね」
才原はそう言って、宵月の前に麦茶を置いた。
「でも――あまり過保護になりすぎるのも、彼女のためにはならないかもしれませんよ」
「過保護のつもりはないんですが」
宵月はコップに目を落とす。
「モルガは何でも一生懸命で、頼まれたことも全部、自分でやろうとするだろ」
「ええ」
「だからこそ、気負いすぎるんじゃないかと思って。頑張りすぎて、空回りすることもあるし」
宵月はそこで言葉を止めた。
指先が、コップの縁をゆっくりとなぞる。
「そこが、少し心配なんです」
才原は三杯目の麦茶を自分の前に置くと、ふっと笑った。
「それを“過保護”って言うんですよ」
「……そうですか?」
「そうです」
才原は眼鏡の奥から、いたずらっぽく宵月を見る。
「アルスくんに対しても、時々そんな顔をしてますよ」
「え?」
「気づいてませんでした?」
「…………」
宵月は黙り込んだ。
才原はそんな彼女を見て、くすりと笑う。
「図星みたいですね」
「余計なことを言わなくていいです」
「はいはい」
宵月は小さく息を吐き、それから諦めたように笑った。
「そうかもしれませんね」
コップを手に取り、麦茶をひと口飲む。
冷たい液体が喉を通り、張り詰めていた気持ちがほんの少しだけ緩んだ。
窓から差し込む陽光を受けて、琥珀色の水面が揺れる。
その光をぼんやり眺めながら、宵月は静かに呟いた。
「あの子が、無事に戻ってくれば、それでいいんですけどね」
才原は答えなかった。
ただ、宵月の言葉を聞きながら、自分のコップを手に取る。
穏やかな昼下がりの事務所に、二人が麦茶を口にする小さな音だけが響いていた。




