第7話 アルス編 7
そんなことを思っていると、画面の中ではクライマックスを告げる壮麗な音楽が流れはじめた。
眩い照明がランウェイを包み込み、最後に登場したのは──漆黒のタキシードと、純白のウェディングドレス。
静寂とともに舞台が一変する。
照明が絹のように柔らかくなり、空気までもが神聖なものへと変わっていく。白いドレスを纏ったモデルが一歩ずつ歩み出ると、その衣装はまるで光そのものを纏ったように、静かに輝いた。
それはまさに、ショーの頂点を飾る一着。どうやら、イリアのファッションショーではこの演出が恒例のようだった。
ソノラの視線が再び画面に釘付けになる。その瞳は、舞台の光を映し込んだかのように柔らかく揺れ、モデルの姿を捉えた瞬間、きらりと星のような輝きを放った。
「……我も、この白いのを着てみたい……」
ぽつりと、心から湧き上がったような声が漏れる。そのあまりにも自然な呟きに、アルスは思わず聞き返した。
「えっ?」
「この白い衣を纏ってみたいと言ったのだ。我も、あの者のように歩いてみたい。どこで手に入れられるのだ?」
今度ははっきりとした声で、ソノラは画面を指しながら言った。その指先には迷いもためらいもない。欲しいものに手を伸ばす子どものように、まっすぐだった。
アルスは目をぱちくりとさせたまま、画面のドレスに視線を移す。
それはまるで雪を織ったような、繊細な白のドレス。舞台上の風すら計算されたかのように、布が優雅に揺れている。
「あー……買えば、着ること自体はできると思うけど……。でも、こういうのって、たぶん一点物だし……たぶん、すごく高いんじゃないかなあ」
真面目に考え込みながら答えるアルスを、ソノラはじれったそうに一瞥した。 そして、何かを思いついたようにベッドへと向かう。
──ばさっ。
突然、白いシーツが音を立てて引き剥がされた。
そのままソノラは身を翻し、器用に布を身体に巻きつける。
腰にひと巻き、肩にかけてひとひねり。即興とは思えぬ手際の良さで、彼女は堂々と立ち上がった。
両腕を広げ、堂々と胸を張ると、アルスの前でくるりと一回転。
「見よ、どうじゃ。我にも似合うであろう!」
その声は高らかで、誇らしげだった。
真剣な表情のまま、芝居がかった仕草でポーズを決めるソノラ。銀白の髪がシーツと交わり、ふわりと舞い上がる。
アルスは口元を押さえ、笑いを必死にこらえた。唇が小さく震え、喉の奥から込み上げる笑いを堪えながら、優しく言葉を返す。
「うん、とっても似合ってるよ。堂々としてて……なんだか、本物のモデルさんみたいだ」
そのひと言に、ソノラはますます気を良くしたようだった。両腕をなめらかに上げ、足を交互に踏み鳴らす。どこで見たのか覚えたのか、奇妙なステップを踏みながら、部屋の中を優雅に練り歩きはじめた。
シーツが風を孕み、まるで舞台衣装のようにふわりと広がる。
ソノラの表情は、誇り高い女王のようで、どこか無邪気な少女のようでもあった。
「ソノラ、それ……ドレスっていうより……踊り子さんだよ」
肩を震わせながらようやく言葉を紡ぐと、ソノラはぴたりと足を止めた。
「ふむ……それも悪くない響きだな。よし、我はこの踊りを極める!」
そう宣言すると、またくるくると回りはじめる。
その姿にアルスは、とうとう堪えきれずに笑い声をこぼした。
彼女の舞うたびに、部屋には柔らかなあたたかさが満ちていく。その光景が愛おしくて、まぶしくて、アルスの胸に小さな灯りがともったように感じられた。
「アルス! このファッションショーとやらは、いつなのだ?」
唐突に声の調子が高まり、アルスは少し驚きながらも、苦笑を浮かべて答えた。シーツ姿のまま、すっかり真剣な表情に戻ったソノラを前に、慌てて机に置いてあったチケットを手に取る。
「えーと……来週の、夕方五時からだったはず」
印字された文字を確認しながら、慎重に答える。
「ふむ……その日は、意識をはっきりさせておかねばならんな」
ソノラは腕を組み、静かにうなずいた。
瞳の奥には、淡い炎のような光が宿っている。それは、ただの好奇心ではない。 何かを「見届けたい」という、意志の灯火。アルスは、ふとその横顔を見つめる。
──覚醒している今のソノラは、自分の意思で世界を見て、心に刻んでいる。
けれど、非覚醒のときの彼女は、記憶も曖昧で、感情の輪郭も霞んでしまう。きっとこのファッションショーは、ソノラにとって“ただのイベント”ではなく、“自分自身の生きた記憶”として刻みたい、そんな強い想いを託した場なのだ。
「うん。ちゃんと観られるように、体調もしっかり整えておこうね」
アルスは柔らかな声でそう告げると、ちらりと時計に目をやった。短針は十一を越え、夜の静けさが部屋の隅々にまで染み込む頃合いだった。
「さて、そろそろ寝ようか」
アルスはノートパソコンの蓋を静かに閉じ、手の中の温もりが残るそれを机の上にそっと置いた。青白い画面の光が消えると、部屋には一気に夜の気配が満ちる。
「そうだな。我も、この肉体を大切に扱わねばならんからな」
ソノラは真面目な声でそう言うと、するりと立ち上がり、自分の寝床へと向かった。さっきドレス代わりに巻いていた白いシーツを器用に広げ直し、くしゃくしゃになった布の角を丁寧に伸ばしていく。まるで儀式のような、静かで落ち着いた所作だった。
整えられたそのマットは、厚手の子ども用寝具で、フレデリカが「余ってるから」と笑顔で譲ってくれたものだった。表面はふわふわのパイル地で、触れるとほんのりとした温かさがある。まるで初めからソノラのために仕立てられたかのような寝心地だった。
ソノラはそのマットをすっかり気に入り、今では自分の“居場所”として自然にそこへ体を預けている。三つ折りにできる構造で、使わないときはコンパクトに片づけられるのだが、実際にはほとんど広げっぱなし。彼女は気まぐれにそこへ転がり、気が済むまでまどろんでいた。
「これは良い。我の寝床としても、なかなか申し分ないぞ」
そんなふうに得意げに言っていた日のことを思い出し、アルスは小さく笑った。マットに身を沈めるソノラの姿は、どこか誇らしげで、しかし同時にとても無防備で、彼の目にはひどく微笑ましく映った。
アルスもゆっくりと立ち上がり、自分の寝支度を整える。 歯を磨き、カーテンの隙間を指先でそっと閉じ、灯りを落とす。部屋の明かりが消えると、街灯の淡い橙色の光がカーテン越しに差し込み、室内にほのかな影を落とした。
どこか遠くから、車の走る音がかすかに聞こえる。ソノラは既にマットに横たわり、白いシーツを胸まで引き上げて目を閉じていた。銀白の髪がふわりと枕に広がり、呼吸はまだ浅いけれど、心なしかその寝顔は安らいで見えた。
寝息が重なるには、もう少し時間がかかりそうだったが──
「アルスよ」
静寂に溶け込むような声が、ふいに闇の中から響いた。天井を見上げたまま、ソノラがぽつりと呟く。声は柔らかく、けれど、その奥にはどこか澄んだ芯のようなものがあった。
「どうしたの、ソノラ?」
アルスはベッドの上で身じろぎし、隣に横たわる彼女にそっと視線を向けた。ソノラはまだ天井を見つめている。銀白の髪がシーツに広がり、街灯の淡い光が、その頬を静かに照らしていた。
「ファッションショーとは……どこで行われるのだ?」
目を伏せることなく、ただ宙を見つめながらの問いだった。アルスは少し考え、ベッド脇の棚に手を伸ばして、先ほど置いたチケットを取り上げた。
「えっとね、イリアの会社が入っているビルの最上階だよ。中央駅から歩いて三分くらい。王宮のすぐそばにある大きな建物なんだ。ガラス張りの吹き抜けで……中もすごくきれいなんだって」
文字をなぞるようにして確認しながら、アルスは穏やかに答えた。
するとソノラは、ごく小さな声で続けた。
「ふむ……では、その舞台に立つのは誰だ?」
「えーと……僕が知ってるのは、ジーノさんかな。イリアの専属モデルなんだ。他にも、常連のモデルさんが何人か出るって聞いたよ」
曖昧な記憶をたどるように、アルスは天井を見つめたまま小さく首を傾げた。そのとき、ソノラの瞳がふいに輝きを宿す。呼吸をひとつ整えるように息を吸い込んでから、彼女ははっきりと告げた。
「では……我も、その舞台に立つことはできるのか?」
「……えっ?」
その問いは、あまりにも唐突で、けれど心を揺さぶるほど真剣だった。アルスは目を瞬かせ、すぐには返事ができなかった。時間がほんの少し止まったような静けさが流れる。
「え、えーっと……それは……うーん、ちょっと難しいかもしれないけど……」
夢を否定したくなくて、アルスは言葉を濁した。ファッションショーは選ばれた者だけが立つ場所。現実は簡単ではないと知っている。でも、だからこそ――。
そんな彼の躊躇いを見透かしたように、ソノラはくすりと笑い、まぶたをそっと伏せた。
「そうか。まぁ、それでも良い。……いつか出られれば、それで構わぬ」
静かな口調。だがその一言には、計り知れない年月の重みが滲んでいた。
冗談や憧れではない。ソノラは本気で『いつか』を見ているのだ。時間の先にある未来を、確かな意志で見つめている。
「我は長い時を生きている。待つことには、ずいぶん慣れているからな」
その言葉に、アルスは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
彼女がどれほどの時間を歩んできたのか――自分には想像もつかない。けれど、だからこそ、その『いつか』を叶えるために、何かできることはないだろうか。少しでも、力になれたら。
アルスはそっと身を起こし、ベッドの明かりを消す。再び闇が訪れ、部屋には静かな呼吸だけが残る。
彼はソノラの毛布が肩からずり落ちかけているのに気づき、そっとかけ直してやった。ソノラはまぶたを閉じたまま、安らかな寝息を立てている。その寝顔を見守りながら、アルスはまどろむように目を閉じた。
明日が、また穏やかな一日でありますように――そんなささやかな願いを胸に。




