第6話 アルス編 6
食後の静かな時間。ソノラは満足そうに椅子の背もたれに体を預け、手にしていた箸を音を立てないようそっとテーブルに置いた。
その表情には、どこかふわりとした眠気と、満腹ゆえの気だるさが滲んでいる。
対するアルスは、すぐにキッチンへと立ち上がり、使い終えた器を一つひとつ手際よく片づけ始めた。流れるような所作には慣れがあり、皿と器の重なる音すらどこか心地よく響く。
ソノラはしばらくその様子をぼんやりと眺めていたが、やがて重い腰を上げ、テーブルに残っていた自分の皿を持ってキッチンへと向かった。
静かにそれをシンクに置いたあと、彼女はそのまま寝床に戻ろうとしたが──ふと、アルスの机の端に置かれたものが目に留まった。
それは、パソコンの脇に置かれた二枚のチケットだった。 光沢のある紙面には、繊細な箔押しと鮮やかなカラーの印刷。明らかに、ただの紙切れではない。
「アルス、これはなんだ?」
興味をひかれたように、ソノラはチケットを指先で摘み上げる。その表情は好奇心と警戒心が入り混じっていて、やや難しい顔をしていた。
キッチンから振り返ったアルスは、濡れた手をふきんで丁寧に拭きながら、彼女のもとへ歩み寄ってきた。
「あ、それ……ジーノさんがくれたんだ。この前もらっただろ。あっ、あの時はぼんやりしてたソノラの時か」
机のチケットに目をやりながら、アルスは柔らかく微笑む。
「イリアのファッションショーのチケットだよ。ちゃんと、ソノラの分もある」
ソノラは手の中のチケットをじっと見つめたまま、ゆっくりと首をかしげた。
「いりあ……? ふぁっしょん、しょー……?」
知らない単語に戸惑ったのか、ぽかんとした顔でアルスを見上げる。
その拍子に、真珠色の髪がふわりと揺れ、やわらかく光を反射した。
「えーっとね、イリアっていうのは服を作ってる会社で、ファッションショーっていうのは……うーん……その服を、モデルさんっていう人たちが着て、ステージの上で紹介するイベント……みたいな感じ、かな」
言いながら、アルスの声にはどこか自信のなさが混じっていた。こうした華やかな世界に明るいわけではない彼にとって、それは曖昧な説明にならざるを得なかった。
ソノラはしばらくの間、チケットとアルスの顔とを交互に見比べていたが──やがて小さく唸るようにして言った。
「……さっぱりわからん」
そして、両手で自分の髪をわしゃわしゃとかき乱す。ぱさりと跳ねた髪の毛が肩に散り、その動きが、彼女の困惑ぶりを如実に物語っていた。
「服を……見せるだけの催しで、何が面白いんだ?」
つぶやいたその声は、どこか真剣で、純粋な疑問を含んでいた。
アルスは思わず笑ってしまいそうになるのを堪え、代わりに小さく息を吐いた。
アンビジブルとの戦いであれほど鋭く研ぎ澄まされていた彼女が、今こうして、日常の中で眉をひそめている。
その姿が、なんとも言えず微笑ましかった。
「たぶん……実際に見てみたほうが、分かりやすいかもね」
そう言いながら、アルスは傍らのパソコンを開いた。
検索バーに『イリア ファッションショー』と入力すると、すぐにトップに『昨年のファッションショー動画が一部期間限定で無料公開中』のバナーが表示された。
「ソノラ、これがファッションショーだよ」
アルスはノートパソコンの再生ボタンを押し、画面をこちらへ向けると、ゆっくりとソノラの前に滑らせた。
ソノラは椅子に浅く腰をかけ直し、身を乗り出すようにして画面を覗き込む。真珠色の髪が肩からこぼれ、頬にふわりとかかった。
その瞳が、ぱちりと大きく瞬き、見開かれる。
画面の中では、華やかな音楽が次々と流れ、舞台を彩る色とりどりの照明が目まぐるしく変化していた。
細長く、やや高く設えられたランウェイの上を、異なる種族のモデルたちが一人ずつ歩いてくる。
光沢のある布を優雅に揺らしながら進む者。翼や鱗をアクセサリーのようにあしらい、誇らしげに見せつける者。機械仕掛けの肢体を装飾に取り入れた者。 彼らはそれぞれまったく異なる色と形、雰囲気をまとう衣装を身にまとい、まるで空想世界の登場人物のように、次々と現れては観客の視線を攫っていく。
「……これは、服なのか?」
ぽつりと漏れたソノラの声には、驚きと戸惑い、そしてほんの少しの敬意が混ざっていた。
まるで呪文にかけられたように、彼女の瞳は画面に釘付けになり、瞬きすら忘れている。
アルスは、そんなソノラの横顔をそっと見つめた。
いつもは命令口調で、強く、鋭く、気を抜けば何かに噛みついてきそうな彼女が、今はまるで、初めて外の世界に出た子どものような顔をしている。
その表情がどこか新鮮で、アルスの胸にやわらかな感情を灯した。
「すごいね……本当に、いろんな服があるんだ」
アルスは画面を見ながら、ぽつりと感嘆の声をもらす。
「こんな舞台を、生で見られるなんて」
自然と視線は、机の端に置かれた二枚のチケットへと向かっていた。
――まさか、あのジーノさんが、こんな粋なことをするなんて。
普段は口が悪く、遠慮という言葉を知らず、こちらの気も知らないでずかずかと踏み込んでくる。けれど今回ばかりは、ソノラの分までちゃんと用意してくれていた。 確かに、あのジーノならこの舞台に混ざっても、何ひとつ違和感がないだろう。あの鮮やかな青髪も、空気を自分のものにしてしまうような堂々たる態度も、むしろ「映える」とさえ思える。
けれど、だからこそ――その舞台に立つ彼の姿を想像するだけで、あの不遜な笑みが脳裏をちらついて、なんとも言えない気持ちになる。
(……いや、やっぱり複雑だな)
アルスは苦笑しながら視線を戻した。
画面の中では、新たなモデルが現れ、真紅の衣装を翻しながらランウェイを滑るように歩いている。
その光景に、ソノラはまた小さく息を呑んだ。彼女の世界が、ほんの少し、広がっていくのを感じた気がした。




